Dr. Tairaのブログ

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コロナ罹患後の自己免疫疾患

カテゴリー:感染症とCOVID-19(2023年)

はじめに

COVID-19の特徴の一つとして、罹患後に自己免疫疾患や長期症状を発症することが知られています。これらについては多くの症例報告や小規模集団を対象とした研究がありますが、その全貌は明らかにされていません。

今回、大規模コホートを用いた2つの研究 [1, 2] によって、SARS-CoV-2感染が、新たに発症する多様な自己免疫疾患のリスクを大幅に上昇させることが明らかにされています。これらの研究について、ネイチャー系雑誌にシャルマ&ベイリーの解説記事 [3] が掲載されていますので(下図)、ここで紹介したいと思います。

1. 背景

ウイルス感染による自己免疫疾患の誘発は、科学界、医学界の大きな関心事となっています。そして、今回のCOVID-19パンデミックは、感染と自己免疫疾患との関連性、その病態を明らかにできるかもしれない特別な機会を与えています。

SARS-CoV-2感染症は、患者に様々な症状を引き起こしますが、その中でも呼吸器系の症状が臨床の一般的イメージでしょう。SARS-CoV-2は、当初、一般的なインフルエンザと比較されるように、ほとんどが呼吸器系疾患を引き起こすと考えられていました。しかし、すぐに、発熱、咳、筋肉痛、疲労、呼吸困難などの症状を伴う軽症感染から重症呼吸困難、全身症状まで観察されました。COVID-19の重症例では、肺の炎症を刺激する炎症性サイトカインやケモカインによる実質的な炎症反応が確認されています。

COVID-19の患者数が世界的に増加するにつれて、この疾患に対する理解も深まっています。世界的なワクチン接種プログラムの実施によって、COVID-19による死亡率は低下していますが、一方で、罹患後の症状として、新たに発症する自己免疫疾患や炎症性疾患の割合とその増加率が目立ってきています。

SARS-CoV-2感染によって免疫応答の調節障害が起こるという最も初期の証拠は、小児の多系統炎症症候群(MIS-C)を呈した小児患者から得られました。この症候群は、その名が示すように、びまん性の器官系病変と川崎病、毒性ショック症候群、マクロファージ活性化症候群といった他の炎症性症候群と重なる臨床スペクトルを伴います。

パンデミックが始まって以来、多くの研究者が、COVID罹患後の様々な自己免疫疾患を持つ成人の症例も単発的に報告してきました。これらは氷山の一角と思われますが、罹患後に発症した人の自己免疫疾患の真の範囲、その有病率、および発症リスクは、依然として不明でした。これらの事実の正確に理解には、大規模コホートによるデータがないということが大きな障害となっていました。

2. 大規模コホート研究が示すもの

シャルマ&ベイリーの記事 [3] は、2つの独立した研究チームが、COVID罹患後発症の実態把握と正確な理解に向けて、大規模コホート電子カルテデータを用いて分析した結果を紹介しています。一つはChangら [1] の研究報告、もう一つは、まだ査読前の段階(メドアーカイブプレプリント)ですが、Teschら [2] による同様の研究結果です。

Changら [1] は、世界最大のCOVID-19データセットを保持するTriNetXネットワークを使用し、世界の48の医療機関から590万人を超える成人を対象として解析しました。傾向スコアマッチングを用いて、それぞれ887,455人の2つのコホート(COVID-19と非COVID-19)を作成し、研究期間(2020年1月1日から2021年12月31日)における自己免疫疾患の発生率を特定しました。ここでは、ワクチンの影響が交絡因子となる可能性があるため、ワクチン未接種者のみを解析の対象としました。

罹患後6カ月を追跡した調査によれば、自己免疫疾患の発生率は、COVID-19罹患集団では非COVID-19集団より有意に高いことがわかりました。SARS-CoV-2感染後の自己免疫疾患について、これまで知られていた他のウイルス病原体(コクサッキー1型、コロナウイルス、エプスタイン・バーウイルスなど)と比較して、下記のユニークな点が見られました。

COVID罹患後の症状の範囲として、関節リウマチ、全身性エリテマトーデスなどの自己免疫疾患のほぼ全てをカバーしていました。 これらには、血管炎のほか、炎症性腸疾患 や1型糖尿病がありました。自己免疫疾患のリスクは、すべての年齢層で概ね一貫していました。つまり、コロナに感染すると、年齢や初期症状に関わらず、罹患後自己免疫疾患を発症するリスクが高くなるということです。

一方、Teschら [2] による同様の研究は、2020年中にPCR陽性として確定されたワクチン未接種COVID患者640,701人の集団について、自己免疫疾患のリスクについて評価しています。研究チームは、年齢、性別、自己免疫疾患の既往の有無を確認した1,560,357人の非COVID-19集団と比較して、感染から3~15カ月後に自己免疫疾患を発症する可能性が42.6%高いことを確認しました。

最も高い発症率比を示したのは、比較的まれな自己免疫疾患である血管炎です。また、自己免疫疾患の既往がある人においては、COVID-19罹患後に別の自己免疫疾患を発症してしまうリスクが23%高くなることも強調されています。

上記の2つの研究 [1, 2] は、その研究デザイン(レトロスペクティブ・コホート)の固有の性質のため、SARS-CoV-2と自己免疫疾患の発症との因果関係を直接証明するものではありません。一般に、自己免疫疾患や炎症性病態は、COVID-19を含む様々な感染症に関連しています。したがって、これらの論文に記載されている自己免疫疾患のほとんどは、COVID-19に特化したものではないことには留意する必要があります。とはいえ、これらの研究で明らかにされたことは、COVID-19の重要な側面として、罹患後において自己免疫疾患の全体的な発生率と範囲が顕著に増加するということです。

3. 分子メカニズムと治療

シャルマ&ベイリー [3] は、さらに、COVID-19に関連した免疫調節異常の分子基盤について、様々な仮説や治療にも言及しています。

これまで提案されている仮説やモデルとして、ウイルスタンパク質による分子模倣、SARS-CoV-2受容体ACE2の広範囲な発現によるCOVID-19の全身症状および多臓器関与、免疫細胞のバイスタンダー活性化、ウイルスによって損傷を受けた組織からの自己抗原放出、スーパー抗原によるリンパ球の活性化およびエピトープの拡散などがあります。

さらに、年齢、合併症、遺伝的要因など、さまざまな宿主の要因も寄与していると考えられます。Liuら [4] は、COVID-19と自己免疫疾患における免疫反応の類似性を比較し、COVID-19の臓器障害は、自己免疫疾患と同様に、大部分が免疫介在性であると結論付けています。また、COVID-19患者では、自己免疫疾患でも見られる様々な自己抗体(抗核抗体、ループスアンチコアグラント寒冷凝集素、抗Ro/SSA抗体など)が検出されることを強調しています。

さらに、英国でのClinical Practice Research Datalink Aurumデータベースのデータを用いた後向きマッチド・コホート解析の結果が、メドアーカイブに報告されています [5]。これは、2020年1月31日から2021年6月30日の間におけるイングランド全土でのSARS-CoV-2感染者458,147人と非感染者1,818,929人の解析データで、1型糖尿病の発症、炎症性腸疾患および乾癬がSARS-CoV-2感染と有意に関連していると報告されています。

COVID罹患後の自己免疫疾患については、遺伝的、エピジェネティックな素因や病態生理などの決定的な分子メカニズムはまだ不明です。多くの潜在的な理論が示されていますが、特定の遺伝子欠損実験動物モデル、バイオインフォマティクス、システム生物学のアプローチによる今後の調査が必要なことを示しています。

これらのアプローチの一つとして、たとえば、Ghoshら [6] は、45,000以上のウイルスパンデミックのトランスクリプトームデータセットを解析し、ウイルスの引き金に対する宿主免疫反応を評価する166遺伝子のシグネチャーパネルを抽出しています。

COVID-19罹患後に新たに発症する自己免疫疾患は、既知の疾患であり、その多くで有効な治療法が既に得られていることは重要です。MIS-Cについても、川崎病と症状が重なることから、川崎病で確立された治療法の多くをMIS-Cの患者さんが受けています。したがって、COVID-19が自己免疫疾患などのCOVID-19後の合併症のリスクにどのように影響するかを理解することは、COVID-19を発症した人の予防策や早期治療を実施し、罹患や死亡を予防することにつながります。

4. ワクチン接種後の自己免疫疾患

以上が、シャルマ&ベイリーの解説記事 [3] の概要です。ここで、疑問として出てくるのが、SARS-CoV-2感染で自己免疫疾患の発症リスクが大幅に上がるとすれば、ウイルスを模倣したタンパク質(スパイクタンパク)をコードするmRNAワクチンを接種したら、同じようなことが起きるのではないか?ということです。

ワクチン接種による自己免疫疾患の発症の可能性については、上記のChangら [1] の論文でも引用されている総説・解説論文に示されています [7, 8]

そのうちの一つ、Chenら [7] の総説は2年前に出版されたものですが、COVID-19ワクチンのほとんどは、副作用や有効性に関する広範な研究が行われることなく承認されたことを指摘しながら、すでに2021年の時点において、ワクチン接種後の自己免疫疾患の発症に関して多くの報告があると述べています。これらには、免疫性血栓性血小板減少症、自己免疫性肝疾患、ギランバレー症候群、IgA腎症、関節リウマチ、全身性エリテマトーデスなどが含まれます。

Chenら [7] は、ワクチンの分子模倣、特定の自己抗体の産生、特定のワクチンアジュバントの役割は、自己免疫現象に大きく寄与している可能性があると述べています。しかし、COVID-19ワクチンと自己免疫症状との関連が偶然なのか、それとも因果関係があるのかは、まだ解明されていないとしています。そして、「我々は単にCOVID-19ワクチン接種に関連する自己免疫症状に関する現在の理解を提案するだけである」と断っており、「COVID-19ワクチンの大量接種の圧倒的な利点を否定することを目的としていない」とワクチン支持の立場を明確にしています。

おわりに

COVID-19罹患後に自己免疫疾患を新たに発症する確率が高くなるという今回の大規模コホート研究報告は、この感染症の危険性についてまた新たに警鐘をならすものです。初期症状の程度や年齢に関わらず、この罹患後疾患を発症することに留意しなければなりません。

同時に、SARS-CoV-2のタンパク質をコードしたmRNAワクチンでも同様のことが起きる可能性は十分にあることは、数々の接種後の発症事例が物語っています。その意味で、今回の大規模コホート研究で、ワクチン接種者を除いて解析しているというのは気になります。交絡因子としての可能性があるので、ワクチン接種者を除外したという理由がなされていますが、ワクチン接種者同士(COVID感染と非感染者)を比べれば、それはある程度避けられるはずであり、傾向も見えてくるはずです。

ひょっとして、ワクチン接種者の方が、非接種者より自己免疫疾患の発症確率が高くなったから、解析データから除外したということはないでしょうね。

引用文献

[1] Chang, R. et al.: Risk of autoimmune diseases in patients with COVID-19: a retrospective cohort study. eClinicalMedicine 56, 101783 (2023). https://doi.org/10.1016/j.eclinm.2022.101783

[2] Tesch, F. et al.: Incident autoimmune diseases in association with a SARS-CoV-2 infection: A matched cohort study. medRxiv Posted January 26, 2023. https://doi.org/10.1101/2023.01.25.23285014 

[3] Sharma, C. & Bayry, J.: High risk of autoimmune diseases after COVID-19. Nat. Rev. Rheumatol. Published 12 April 2023. https://doi.org/10.1038/s41584-023-00964-y

[4] Liu, Y. et al.: COVID-19 and autoimmune diseases. Curr. Opin. Rheumatol. 33, 155–162 (2021). https://www.ncbi.nlm.nih.gov/pmc/articles/PMC7880581/

[5] Syed, U. et al.: The incidence of immune mediated inflammatory diseases following COVID-19: a matched cohort study in UK primary care. medRxiv Posted October 7, 2022. https://doi.org/10.1101/2022.10.06.22280775

[6] Ghosh, P. et al.: An Artificial Intelligence-guided signature reveals the shared host immune response in MIS-C and Kawasaki disease. Nat. Commun. 13, 2687 (2022). https://doi.org/10.1038/s41467-022-30357-w

[7] Chen, Y. et al.: New-onset autoimmune phenomena post-COVID-19 vaccination. Immunology 165, 386-401 (2021). https://doi.org/10.1111/imm.13443

[8] Sachinidis, A. & Garyfallos, A.: COVID-19 vaccination can occasionally trigger autoimmune phenomena, probably via inducing age-associated B cells. Int. J. Rheum. Dis. 25: 83-85 (2022). https://doi.org/10.1111/1756-185X.14238 

                     

カテゴリー:感染症とCOVID-19(2023年)

新型コロナは接触感染する

はじめに

現在、SARS-CoV-2の主要感染様式は空気感染(エアロゾル感染)であるというのは科学的常識になっています。従来言われていた、接触感染飛沫感染少ないか稀であるということも認識されています。大きな飛沫はすぐに落下するし、感染力をもつ「生きた」ウイルスが固体表面から検出されることもほとんどないと言われています。

ところが今回、ランセット系雑誌"The Lancet Microbe"に掲載された論文において、人の手やよく触る家庭の個体表面からSARS-CoV-2が検出されるような場合、COVID-19感染者の発生に関連することが示されました [1]。つまり、この研究結果は、SARS-CoV-2が空気感染するのみならず、汚染された手や個体表面を介して接触感染するという当初の考え方をあらためて補強するものです。

この研究成果は、米国発行の経済誌フォーブス(Forbes)も早速取り上げています [2]。そこでこの記事と論文に沿いながら、本ブログで紹介したいと思います。

1. 研究の概要

本研究は英国インペリアル・カレッジ・ロンドンの研究チームによるもので、2020年9月から2021年3月までにCOVID-19と診断された英国ロンドン在住の人を募って行なわれました。これは、COVID-19パンデミックのアルファ変異体の前(2020年9月から11月末まで)とアルファ変異体(B.1.1.7、2020年12月から2021年3月末まで)の流行をカバーしています。

研究チームは、これらの初期対象者を「一次感染者」と名付け、これらの一次感染者の手のスワブ(ぬぐい液)と、これらの一次感染者と同じ世帯の人の手のスワブを対象にSARS-CoV-2のRT-PCR検査を繰り返しました。また同時に、これらの家庭の共同スペースで、よく触れる個体表面のスワブについて繰り返し検査しました。一次症例と接触した25組について上気道(URT)スワブからSARS-CoV-2を分離し、全ゲノム配列を決定しました。

研究チームは620人の一次感染者を特定し、その後、一次感染者と共有する279世帯の414人の検査を継続しました。その結果、アルファ前波には28.4%、アルファ期には51.8%の世帯員が感染しました。COVIDの伝播・感染は、一次感染者の上気道内のウイルス量とは相関せず、一次感染者の手からのSARS-CoV-2 検出とは相関がありました。

実際、一次感染者の手からSARS-CoV-2が検出された場合、同居人がSARS-CoV-2に感染する相対リスクは1.7倍になりました。また、世帯内の共同スペースで接触頻度の高い固体表面からSARS-CoV-2を検出した場合は、COVIDのリスクは1.66倍になり、世帯員の手指からウイルスが検出された場合、そのリスクは2倍以上となりました。

さらに、同居人がSARS-CoV-2に感染してしまった6つのケースでは、最初彼らの上気道スワブPCR陰性である一方で、彼らの手や接触頻度の高い表面のスワブ検体はPCR陽性でした。これらのことから、この家庭で発生した感染の少なくとも一部には、共有の汚染表面が関与していることが強く示唆されました。そして、一次感染者から同居人に二次感染が起こったことは、ウイルスのゲノム解析によって確認されました。

つまり、これらの結果は、一次感染者がどのくらいのウイルス量を空中に排出しているかということよりも、結果として排出されたウイルスによって「家庭内の表面がどの程度汚染されたか」、そして「表面に触ることで手にどの程度ウイルスが付着したか」で二次感染が成立したということを示しています。

2. 接触感染への薄れと表面消毒は無意味とする見解

COVID-19パンデミックの初期(2020年当初)には、世界中で専門家たちは、手洗いと表面の消毒を励行するようにと繰り返し呼びかけていました。それは、当時SARS-CoV-2が表面に何時間も感染力を維持したまま留まることが、すでに研究で明らかになっていたからです。

しかし、フォーブス記事は直ぐに転機が訪れたと指摘しています。それは、2020年5月に同誌が報じたように [3]SARS-CoV-2は、インフルエンザのような他の呼吸器系ウイルスと全く同じ方法で伝播しているわけではないという事実が、研究によって明らかになってきたことです。つまり、空気感染の事実です。

この新しいウイルスは、飛沫だけでなく、それがエアロゾル化したものによって空中に長時間漂い、拡散する可能性が指摘されてきたわけです。このため、専門家たちは、ウイルスの拡散を食い止めるための重要な介入策として、マスクの使用と換気、空気の浄化を推奨してきました。

そうなると、面白いもので、人間は一度に一つのことにしか集中しない傾向になると記事は指摘しています。COVID-19は、汚染された表面への接触ではなく、エアロゾル感染によるものが圧倒的に多いという考えから、表面の消毒よりもマスク着用について重要視されることが多くなりました。そして、世界的な論調として、物や表面を清潔に保ち、消毒するということはむしろ無意味であるという声が大きくなり [4]、いつの間にか接触感染への関心は影を潜めてしまいました。

このような傾向について、フォーブス記事は次のようなたとえで述べています。「下着とシャツを同時に着るなど、一度に何役もこなすことができるのに、これは少し残念なことだった」。

主要感染が空気感染ということになると、日本でも途端に「手指消毒や表面のアルコール消毒は必要なし、無意味」とする主張が専門家の間でも出てきました。そのなかの一人が花木秀昭氏(北里大学教授、大村智記念研究所感染制御研究センター長)です。彼は以下のようにツイートしていました(下図)。

花木氏のツイッター上でのプロフィールは「感染症専門の基礎科学者」となっていますが、私は、パンデミック下において彼が「消毒不要」とSNS上で発言することは問題があるとして、以下のように批判しました。

もう一つ例を挙げるならば、西村秀一氏(国立病院機構仙台医療センターウイルスセンター長)の見解です [5, 6]。彼も表面のアルコール消毒は必要ないと発言しています。

3. リスク管理の原則

今回の英国研究チームの報告は、一般に物の表面から感染力のあるウイルスはほとんど検出されないけれども、実際に世帯内で感染したケースをみると、感染する前に手や物の表面がウイルスで汚染されていたということを示しています。つまり、接触感染への対応を排除する理由にはならないのです。

リスク管理の原則としてスイスチーズモデルの考え方があります。これは、クイーンズランド大学の非常勤准教授であるイアン・M・マッケイ博士が2020年に発表したモデルです。それぞれの政策や介入には穴があるので、これらの穴をカバーするためには異なる政策の介入を組み合わせたり重ねたりすることが重要であるという考え方です。

パンデミックへの取り組みには、一つの方法では不十分です。スイスチーチモデルを応用すれば、検査、監視、ワクチン接種、マスクの使用、換気、空気浄化、洗浄・消毒、治療といったものをうまく調整しながら組み合わせることで、感染・病気の防止の確率を上げるということになります。感染症分野では、これはハードル理論、バランス(シーソー)理論として古くから知られています(→感染制御のためのバランス理論)。

したがって、1かゼロかで、一方だけを取り上げ、他方を排除する理由はありません。SARS-CoV-2は空気感染するので換気が重要であり、消毒は無意味と断言することは、リスク管理の原則からは外れるわけです。フォーブス記事は、手洗いや消毒は、感染防止にとって一般的に良いことであり、COVID-19の流行が緩和されたからと言って、手洗いや消毒をやめるライセンスとして見てはいけないと書いています。

とはいえ、触れる可能性のあるものすべてを積極的に消毒する必要はないのです。定期的に触れる、多数の人が触れる物や表面を清潔に保つことに意味があるということです。これは、汚染物からの再エアロゾル化を防ぐだけでなく、COVID-19、インフルエンザ、その他多くのウイルスや細菌の感染症防止に役立つはずです。パンデミック下で医療ひっ迫状態にあるときは、あらゆる感染症を防ぎ、患者を増やさないことは意味あることです。

もちろん、定期的な清掃や消毒、手洗い用の消毒液や洗面台、石鹸の提供にはコストの問題があり、そこにはお金はかけられないということも出てくるでしょう。しかし、長い目で見れば、従業員や顧客や人々が病気になることはビジネスや社会活動にとって良いことではありません。それを防ぐための投資は価値があるでしょう。フォーブス記事は、「感染症の蔓延を防ぐためのより良い方法を見つけることは、それほど気難しいテーマではないはずだ」と述べています。

おわりに

これまで、物の表面から「生きたウイルス」を検出することはほとんどないとされてきました。そこから、表面消毒は意味がないという言説が生まれました。ところが、実際に家庭内感染した事例を見てみると、一感染者のウイルス量と二次感染は相関がなく、二次感染前に手や表面がウイルスで汚染されていたということがわかり、接触感染は無視できないということになりました。

キーボードやマウス、テーブルの上、ドアノブなど、よく触れる表面を定期的に消毒し続けることも意味があることを示すものです。とはいえ、同居世帯での家庭内感染は実際に防ぐことは容易でないでしょう。むしろ、不特定多数が集まるお店や施設内での手指消毒や表面消毒が、意味あるものとして、再認識されるべきだと思われます。

引用文献・記事

[1] Derqui, N. et al.: Risk factors and vectors for SARS-CoV-2 household transmission: a prospective, longitudinal cohort study. Lancet Microbe April 6, 2023. https://doi.org/10.1016/S2666-5247(23)00069-1

[2] Lee, B. Y.: You can get Covid-19 from coronavirus-contaminated surfaces, new study cnfirms. Forbes April 8, 2023. https://www.forbes.com/sites/brucelee/2023/04/08/you-can-get-covid-19-from-coronavirus-contaminated-surfaces-new-study-confirms/?sh=495d95f368fd

[3] Lee, B. Y.: Where coronavirus is more likely to be airborne, 5 places to avoid. Forbes May 30, 2020. https://www.forbes.com/sites/brucelee/2020/05/30/where-coronavirus-is-more-likely-to-be-airborne-5-places-to-avoid/?sh=7f7b525239ab

[4] Lewis, D.: COVID-19 rarely spreads through surfaces. So why are we still deep cleaning? Nature 590, 26-28 (2021). https://www.nature.com/articles/d41586-021-00251-4

[5] J-CASTニュース: 新型コロナウイルスは空気感染する 間違った対策は無意味だ!【新型コロナウイルスを知る一冊】. 2021.08.15. https://www.j-cast.com/kaisha/2021/08/15418147.html?p=all

[6] 山口博弥: コロナの接触感染は気にしなくていい? 読売新聞オンライン 2022.06.07. https://www.yomiuri.co.jp/column/naruhodo/20220603-OYT8T50040/

引用したブログ記事

2023年1月28日 感染制御のためのバランス理論

                    

カテゴリー:感染症とCOVID-19(2023年)

ウィズコロナでは終息しないパンデミック

カテゴリー:感染症とCOVID-19(2023年)

2023年新年度が始まりました。テレビからは「コロナ前の日常に戻りつつあります」というメッセージがよく聞こえてきますが、ウィズコロナと言っている間はコロナ前には戻れないでしょう。なぜなら、以下のツイートのように日常的に"with the coronavirus"なわけですから。無論、戻りたい気持ちは誰もが持っていますが。

なかなか終息しないパンデミックの一因として、SARS-CoV-2の感染力の強さがあります。オリジナルの武漢型の基本再生産数が2〜3と言われていますから、次々と現れる変異体の感染力の増強を考慮して掛け算していくと、いまのXBB変異体(XBBについては「スピルオーバーに警鐘を鳴らすWHO専門家」に記述)では10倍程度の感染力になります。季節性インフルエンザウイルスの比較すれば、約20倍です。5類に移行しからと言って、感染力が弱まるわけではありません。これについて先日、以下のようにツイートしました。

日本人の新型コロナに対する抗体獲得率は4割と言われていますが、欧米と比べればかなり低いです(たとえば英国では9割以上)。この程度の自然感染率では、まだまだ感染可能リザーバーに余裕があり、感染対策緩和の状況もあって、これからも多少なりの流行は続くということです。単純に欧米と比べてはいけないのです。第9波流行は5類化とともに本格化するでしょう。

メディアの報道の影響もありますが、私たちはパンデミックにもう慣れっこになっていて、今の流行状況がどの程度のものか分からなくなり、いささかの終息感とともに感覚がマヒしているところもあるでしょう。

実態はすでに全国的には感染者数は下げ止まりになっており、東京、北海道をはじめとするいくつかの都道府県では上昇の傾向にあります。第9波の兆候が見えるわけですが、どのくらいの規模になるかは予想がつきません。どのXBB亜系統が優占してくるかにかかってくるでしょう。

ここで昨日(4/1)報告の感染者数(図1)とデルタ波(第5波)後の収束時の感染者数(図2)を比較してみましょう。昨日の全国の感染者数は7478人です。第7波以降、感染者数ゼロの都道府県はなく、どこも二桁以上の感染者数がずうっと続いています。

図1. 全国の新規陽性者数(2023年3月31日、NHK特設サイト「新型コロナウイルス」より).

一方、デルタ波収束時の10月22日における全国の感染者数は325人であり、10以上の県において感染者数ゼロになっていました。この時はワクチン完全接種が進んでいた時期でもあり、自然感染とワクチンの一時的な集団免疫効果で一気に感染者数が減った時期でもありました。

図2. デルタ波収束時の全国の新規陽性者数(2021年10月22日、NHK特設サイト「新型コロナウイルス」より).

図1図2を比べてみれば、現在の感染者数は20倍以上になっており、いかに今の流行の下げ止まりが高いレベルにあるかがわかると思います。しかも、濃厚接触者の検査も含めて全数把握を行なっていたデルタ波の時期と比べて、今は検査限定した状況かつ申告制による感染者数なので、大きく過小評価されていることを考慮する必要があります。

この10日間の平均COVID-19死亡者数は約30人/日です。死亡報告のタイムラグを考慮する必要はありますが、単純にCOVID-19の致死率を0.1%とすれば、推定感染者数は約3万人になります。いかに日々の感染者数が過小評価されているかが想像できます。

では日本人の自然感染率が高まっていった時にどうなるかは、今の英米の状況を見ればある程度想像できます。両国とも報告されている感染者数は全く当てになりませんので、COVID死者数の推移で見ることにしましょう。英米では、直近一年間の死者数は、多少のオシレーションはありますが、ほとんど変動していません。すなわち、100万人当たり1前後、あるいはそれ以上のレベルで死者数が推移しています(図3)。これは日本の第7、8波の中程度の流行規模に相当します。

図3. 英米における直近1年間のOCIVD-19死者数の推移(日本との比較、Our World in Dataより)

G7諸国でのこの一年の累積死者数の伸びで比べるとどうなるでしょうか。日本を除くG7諸国はほぼ直線的に死者数が伸びており、一部の国ではなだらかになってきてはいますが、今しばらくは死者数はこのまま増えていくでしょう(図4)。

日本は、一年前当初は世界平均並みでしたが、第7、8波の死者数増加でG7諸国に追いついてしまいました。ここ一年を見れば、欧米諸国と比べて死者数が抑えられているということはないのです。

図4. この一年におけるG7諸国のCOCIVD-19累計死者数の推移(Our World in Dataより)

このようにして欧米と比較してみれば、今しばらく日本でも多少の流行が続き(エンデミックにはならず)、自然感染率の高まりとともに欧米のように死者数が定常状態になっていくのではないかと推察します。ただし、依然としてマスクの着用率は欧米に比べて圧倒的に高いので、その分、感染者数と死者数は抑えられるかもしれません。

とはいえ、5類移行とともにマスク着用も含めた感染対策は大幅に緩和される可能性がありますので、その分、第9波は大きな波になるかもしれません。学校ではすでに新学期と同時に「マスク着用を求めない」方針になっています [1]。

将来最も懸念されることの一つは、今の亜系統の流行ではなく、スピルオーバーが起きることです(→スピルオーバーに警鐘を鳴らすWHO専門家)。すなわち、ある程度パンデミックが収束した後、野生動物の間で組換え、変異を起こした新規の強力な変異体が人類の方へ戻ってくることです。第一のスピルオーバーはおそらくオミクロン変異体で起こったと考えられます。次はいつになるでしょうか。

そして、次々と蓄積される新しい科学的知見は、個人はもとより、社会の集団的健康を考えれば、SARS-CoV-2自身に感染してはいけないという認識をあらためて強く抱かせるものです。

急性症状に関わらず長期症状(long COVID)を起こす可能性があること、DNAやエピゲノムに影響を与え、クロマチン構造を変え、DNA修復機構を阻害すること、そして軽症/無症状であったとしても過去に感染し潜在化している内因性レトロウイルスの再活性化のトリガーになり、慢性疲労症候群を起こす可能性があることなど、きわめて質の悪いウイルスだということを再認識すべきでしょう。

引用記事

[1] 文部科学省: 令和5年4月1日以降の専修学校等におけるマスク着用の考え方の見直しと学修者本位の授業の実施等について(周知). 2023.03.17. https://www.mext.go.jp/content/20230317-mxt_kouhou01-000004520_4.pdf

引用したブログ記事

2023年3月26日 スピルオーバーに警鐘を鳴らすWHO専門家

             

カテゴリー:感染症とCOVID-19(2023年)

スピルオーバーに警鐘を鳴らすWHO専門家

カテゴリー:感染症とCOVID-19(2023年)

はじめに

インドでは、いま、SARS-CoV-2の新しい変異体 XBB.1.16 による感染が増加しつつあります。このXBB亜系統については要注意の状況ですが、Indian Express(IE)は、この流行についてはそれほど大きくならないという世界保健機構(WHO)の専門家の見解を掲載しました [1]。「COVIDの新変異体"XBB.1.16": 何がわかっているのか? 新たな感染症の波を引き起こすのか?」というタイトルの記事です。そこで、この記事の内容を紹介したいと思います。

結論から言えば、新興変異体は、人口のほとんどがある程度の免疫を持っている場合、波風を立てることはまずないということです。本当に危険なのは、SARS-CoV-2がある動物に感染し、大きく変化し、またヒトに戻ってくる場合です。そのために「動物間の感染に目を光らせている」という専門家の発言を取り上げています。

1. 記事に登場したWHOの専門家

今回のIE記事 [1] に登場したWHOの専門家は、SARS-CoV-2ウイルスの進化に関する技術諮問グループ(Technical Advisory Group on Sars-CoV-2 Virus Evolution)の議長であるアヌラグ・アガルワル(Anurag Agarwal)博士です。このグループの唯一のインド人でもあります。

記事の最後に簡単な彼の紹介があります。それによれば、アガルワル博士は、アショカ大学(Ashoka University)のトリベディ・スクール・オブ・バイオサイエンスでバイオサイエンスとヘルスリサーチの学部長を務めています。彼は呼吸器専門医であり、呼吸器疾患の生物学を主な研究テーマとしています。

今回のパンデミックが発生した際には、彼はゲノム統合生物学研究所(the Institute of Genomics and Integrative Biology, IGIB)で指揮を執り、政府のパンデミック対応に重要な専門家として携わってきました。IGIBはゲノム解読コンソーシアムの10のハブ研究所の1つであり、アガルワル博士は昨年退職するまでチームを率いていました。

このように、COVID-19の現況を考察し、今後を占うには、うってつけの専門家の一人と言えるでしょう。

2. XBB.1.16の増加

ここで、まずXBB、XBB.1についておさらいしておきましょう。XBBおよびXBB.1は、2022年の8月中旬にインドで初めて確認され、すぐにインド、シンガポール、およびアジアの他の地域に広がり、優勢になった変異体の系統です。BA.2の二つの亜系統であるBA.2.75およびBJ.1が、一人の宿主の中で組換え(recombinaiton)を起こし(融合し)生じたものとされています [2]

特徴的なこととして、XBBの亜系統のスパイクには、BA.2に見られる変異に加えて、N末端ドメイン(NTD)に5個、受容体結合ドメイン(RBD)に9個の計14個の変異があります。そして、XBB.1にはさらにG252V変異があります。これらのオミクロン亜系統は、いずれも感染力が強く、過去の感染やワクチン接種による免疫から逃れる能力に優れています。ちなみに東京では、いま、XBB.1.5の割合が増えていると言われています。

インドでは、まだ小さい規模ですが、XBB亜系統の感染例が増えています(図1)。IE記事によれば、5つの州(うち4つの州ではCOVID-19患者が増加している)のサンプルで、XBB.1.16が報告されており、少なくとも344個のXBB.1.16配列が同定されています。世界的なデータベースであるGISAIDを検索すると、これまでにアップロードされたXBB.1.16配列の49%がインドで占められています。

図1. インドの感染事例の増加(https://www.ndtv.com/coronavirusより転載).

3. COVID-19感染者の新たな波となる可能性は?

ここから、IE記事に掲載されたアガルワル氏の見解を述べていきたいと思います。

インドで検出されたXBB.1.16の大部分はマハラシュトラ州のもので、数週間前に検出されています。しかし、これまでのところ、重症化した人が大量にやってきて、入院したり、死亡したりするというような、医療システムへのストレスはないようです。

アガルワル氏は、XBB.1.16は感染力は強いけれども、他の優勢な変異体と入れ替わりつつあるため、患者数が大きく増えることはないだろうと見ています。そして、オミクロン亜系統の組換え体は免疫逃避能力に優れているけれども、細胞性免疫に対しては感受性があることを強調しています。

つまり、感染事例の多少の増加にはつながるかもしれないが、オミクロンが初めてインドにやってきた2022年1月のような大きな波が起こるとは思えないということです。同年4月頃にオミクロン亜系統のBA.4とBA.5が後から報告されたときに見られたような、小さな増加のようになるかもしれないと、彼は予測しています。

その根拠として、ワクチン接種とは別に、2021年のデルタ波でほぼ全員が感染し、さらに2022年のオミクロン波で再び感染したことで、ほとんどのインド人が2つの変異体にさらされ、その自然感染免疫が重篤な病気から守り続けているとしています。

これまでのCOVID-19流行は、感染力の強い変異型が登場し、優勢な変異型を駆逐して感染者が増加し、人々が再び免疫を獲得して感染者が沈静化するというパターンです。XBB.1.16でも同じことが起こっていると考えられるわけです。

むしろ、アガルワル氏が最も心配していることの一つは、新しい変異体の流行ではなく、繰り返し感染したことによる結果です。心臓発作や脳卒中などのいくつかの合併症は、以前のCOVID-19の感染と関連しているとし、繰り返し感染するとどうなってしまうか?と懸念を示しています。

4. 感染症から身を守るには?

感染症から身を守るためには?という問いに対するアガルワル氏の見解を、以下に直接翻訳文として引用します。

まあ、私たちは自分の生活を止めることはできません。しかし、特に高齢者や合併症のある人、重症化するリスクの高い人は、いくつかの予防策を講じることで、感染を最小限に抑えることができます。

リスクの高い人は、必要な場合を除けば、人混みや換気のない空間に行くことを避けることです。たとえば、映画に行くことは必要ありません。リスクの高い人は、感染がまん延しているときはそれを避けることです。飛行機や混雑した車や地下鉄にいるときは、マスクをすることができます。ワクチン未接種のままの人は、予防接種を受けることができます。それが唯一の現実的な戦略です。

インドではブースター接種率が低いので(約27%)、3回目の予防接種を受けるべきか?という問いには、以下のように答えています。

私たちはすでに感染症にさらされており、ほとんどの人が一次接種を終えています。同じワクチンを追加接種すれば、防御力は少し上がりますが、それほどでもありません。費用対効果の比率はあまり高くはありません。

それよりも大切なのは、手洗い、呼吸器の衛生管理、家庭やオフィスでの適切な換気、人混みでのマスクなどの予防策を講じることです。これらの対策は、インフルエンザのような他の循環するウイルスから人々を守ることにもなります。

上記のように、アガルワル氏の答えは実に合理的のように思えます。ブースター接種よりも手洗い、換気、マスクなどの非医薬的取り組みの重要性を強調していることは日本人にとっても示唆的です。

5. COVID-19も季節性感染症への道を歩んでいるのか?

この問いについて、アガルワル氏は、COVID-19は時折流行する程度であるが、すぐにはなくならないと述べています。というのも、ほとんどの国民はすでにある程度の免疫を持っているからです。本当に危険なのは、動物に移って大きく変化し、再び私たちに感染する場合だけです。それが最悪のシナリオだと協調しています。このために、インド政府はすでに、動物の間でもこのような感染症に目を光らせるワンヘルス監視(one health surveillance)のような措置をとっていると述べています。

ワンヘルスという言葉は、最近聞く機会が増えてきましたが、人の健康を守るためには動物や環境にも目を配り、自然と一体となって取り組む必要があるという概念です。地球上には様々な環境があり、ヒト以外の多種多様な生物が生存していることから、それらを無視したり人間の都合だけで考えるようでは自らの健康を維持できないという考えから出てきた概念です。地球環境破壊、気候変動、環境汚染、生物多様性の減少は、それらの例です。

新興感染症の多くは人獣共通感染症だと言われています。SARS-CoV-2の場合も多くの哺乳類種に感染すること報告されています。したがって、COVID-19が季節性インフルエンザのようにエンデミックになるかということはもはやあまり重要でなく、ワンヘルスの観点から、スピルオーバー(→ スピルオーバー:ヒトー野生動物間の新型コロナ感染 の監視がきわめて重要になってきているというわけです。

おわりに

COVID-19流行の程度が、自然感染率に左右されるというのは常識的に理解できます。最近、日本のCOVID抗体保有率が42%という報告がありました [3] が、欧米各国やインドと比べればまだまだ低いと思われます。その意味では、インドの場合をそのまま日本に当てはめることは難しい面があります。

日本では依然として大流行が起きる可能性が高いと言えます。第9波は目前と言えるでしょう。それがXBB.1.16かほかのXBB亜系統かわかりませんが、一気に感染が広がる可能性があります。すでにその兆候が出てきています。

とはいえ、アガルワル氏の見解や言述には示唆的なものが多く含まれています。感染の繰り返しが危険だということや、感染防止のためにブースター接種よりも換気やマスクなどの非医薬的措置をとれというのもそうですし、COVID-19のエンデミック化を期待するよりもワンヘルスの観点からスピルオーバーの監視が重要だというのもそうです。

このIE記事には出てきませんでしたが、長期コロナ症(long COVID)の脅威も依然としてあります。

今回のWHOの専門家の見解に対して、日本のいまのCOVID-19対策はいかにも心もとない感じです。すでに終わったことにしてしまうような政治的意図からの対策緩和(というより対策放棄)がミエミエのような気がします。

引用したブログ記事

2022年3月9日 スピルオーバー:ヒトー野生動物間の新型コロナ感染

引用文献・記事

 [1]Dutt, A.: XBB.1.16, the new Covid variant: What do we know about it? Can it cause a fresh wave of infections? The Indian Express, March 24, 2023. https://indianexpress.com/article/health-wellness/xbb-1-16-new-covid-variant-fresh-wave-infections-8516545/

[2] Wang, Q. et al.: Alarming antibody evasion properties of rising SARS-CoV-2 BQ and XBB subvariants. Cell https://doi.org/10.1016/j.cell.2022.12.018 

[3] NHK NEWS WEB: 新型コロナ感染による抗体保有率 全国で42.3% 厚生労働省. 2023.03.24. https://www3.nhk.or.jp/news/html/20230324/k10014017771000.html

                    

カテゴリー:感染症とCOVID-19(2023年)

子どもの long COVID について保護者が知っておくべきこと

はじめに

新型コロナウイルス感染症(COVID-19)について、気をつけなければいけないのが long COVID(ここでは長期コロナ症と呼称)です。厚生労働省罹患後症状と呼んでいて、日本では一般的にいわゆるコロナの後遺症として知られているものです [1]

しかし、これは後遺症というより、急性症状に続く長期の罹患病態として認識すべきものでしょう。Long COVIDという名称が提唱された理由もここにあります(→"Long COVID"という病気治っていないコロナの病気を後遺症とよぶべきでない)。つまり、後遺症ではなく、継続性のCOVID-19の症状という認識をもつべきです。

単なる後遺症としての認識しかないことに象徴されるように、日本では長期コロナ症についてはあまり関心が向けられていないように思われます。厚労省もきちんと実態調査をやっていないように思います。しかし、COVID-19の本質は、患者の多さから考えてむしろ長期コロナ症にあるという感もあります。

私の知り合いの学生は、長期コロナ症に悩まされ大学の退学を余儀なくされました。40代の友人は長期コロナ症に苦しみ、会社を退職しました。若者や働き盛りの人たちの長期コロナ症は深刻ですが、この問題は将来ある子どもにとっても同様に重大でしょう。しかし、子どもの長期コロナ症になると、ほとんど実態がわかっていないように思いますし、保護者もそれほど関心を寄せていないように感じます。

UNICEFは「子どもの長期コロナ症について親が知っておくべきこと」というYouTube動画を配信しました [2]。イェール大学医学部の小児感染症専門医であるカルロス・オリベイラ博士(Dr. Carlos Oliveira)による解説動画です(下図)。半年前の配信ですが、日本ではコロナ収束気味の風潮があり、文部科学省も「学校でのマスク着用を求めない」とした今だからこそ [3]、このような情報は重要だと思われます。ここで、C. オリベイラ博士の解説の翻訳文を紹介したいと思います。

1. UNISEF配信動画の全翻訳

こんにちは、私はカルロス・オリベイラ博士です。イェール大学医学部で小児感染症の専門医をしています。

●長期コロナ症とは何か?

長期コロナ症とは、別名「COVID罹患後症状」とも呼ばれる症状で、感染後数カ月間、身体的、精神的、社会的健常性に影響を及ぼす症状を経験することを指します。なぜ長期コロナ症を発症する人がいるのかはまだわかっていませんが、学業やスポーツなどの日常生活の能力に影響を与える可能性があります。

症状は、子どもと大人とでは少し違って見えることがあります。子どもや青年の場合、これらの症状の含まれるものとして、激しい活動に耐えられない、不安や胸の締め付けがある、呼吸困難、ブレインフォグとも呼ばれる思考困難があります。より低年齢では、時に嗅覚や味覚の持続的な低下、脱毛、体重減少が起こることもあります。明らかなのは、長期コロナ症を発症したかなりの数の子どもたちが、現在も継続的な症状に悩まされているということです。

●子どもの長期コロナ症はどのくらい続くのか?

子どもは大人に比べて回復が早い傾向にありますが、半年以上経っても症状を感じ続ける場合もあります。しかし、一般的に、子どもの回復期間は、既往症や最初の感染症の重症度によって決まると言われています。ほとんどの場合、子どもは数カ月で回復します。

●保護者はどのようなサインに気をつけるべきか?

子どもが長期コロナ症になると、学校の勉強やスポーツについていけなくなり、これらの活動をさぼるようになることに、保護者の多くは気づくことになるでしょう。以前は積極的にスポーツに取り組んでいたお子さんも、道を歩くのがやっとで、休まざるを得なくなることもあります。

また、「常に疲れを感じる」「筋肉痛がある」「めまいがする」など、さまざまな煩わしい症状があると訴える場合もあります。最も心配な特徴のひとつは、心臓にダメージを与える可能性があることです。心臓の鼓動がいつもより速く感じたり、少し動いただけで息切れがしたり、気を失いそうになったり、意識を失ったりするなどの心臓の症状がないか、保護者の方は注意する必要があります。

また、保護者は、罹患後のストレスの影響に留意する必要があります。これは、小児では、時に非常に気づきにくい場合があります。このストレスの原因となるものはいくつかあります。たとえば、数ヶ月間味覚がなかった子どもは、今まで好きだった食べ物がどうしても食べられないので、食事のたびにストレスを感じるようになります。

また、罹患以前は簡単にできていた作業ができなくなり、とてもイライラしてしまう子どももいます。また、ここ数年の間に家族や大切な人を亡くした子どもたちが多いことも注目すべき点です。子どもの精神的な健康は、このような喪失感によって大きな影響を受ける可能性があります。

●長期コロナ症の子どもには、どのような治療法があるか?

長期コロナ症の治療法は一概には言えませんが、効果的な治療は適切な診断を受けることから始まります。ですから、経験豊富な小児科医に精密検査をしてもらうことが重要な第一歩です。検査は、患者さんの症状や身体検査の結果に基づいて行われるべきです。たとえば、胸の痛みが強い場合は循環器科を受診し、思考力が低下している場合は神経科を受診すべきです。

治療は一般的に、全体的な機能と生活の質を向上させることを目的としており、それぞれの症状に対応することが最も効果的であるということになります。また、長期コロナ症では、気分が良くなるまで実に長い時間がかかってしまうことも、重要な点です。精神的な問題が必ずしも長期コロナ症の原因ではないかもしれませんが、適切に対処しなければ、その症状が徐々に進行し、回復がさらに遅れるかもしれません。

●保護者はいかにして長期コロナから子どもを守ることができるか?

あなた自身とあなたのお子さんを守る最善の方法は、そもそも感染しないようにできる限りのことをすることです。これには、予防接種を受けられるときに受けさせ、物理的な距離を置く、マスクを着用する、換気をよくするなど、お住まいの地域で推奨されている公衆衛生や社会的な予防策を守ることが含まれます。

これらはすべて、感染を減らし、伝播させる可能性を減らすのに役立ちます。

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翻訳は以上です。

2. 文科省の対応

文科省は(厚労省もですが)、子どもの長期コロナ症に関する情報は一切発信していません。一方で、今年4月からの学校での感染対策について新しいマニュアルを通知しました [3]。それによれば、児童や生徒、それに教職員については、基本的にマスクの着用を求めないとしています。その上で、登下校時に混雑した電車などに乗る場合や医療機関、高齢者施設などを訪問する場合はマスクの着用が推奨されるとしています。

また、マスクの着用を希望している場合や健康上の理由でマスクを着用できない児童や生徒に対しては、学校や教職員がマスクの着脱を強いることがないよう求めるとともに、マスク着用の有無による差別や偏見がないよう適切に指導することも求めています。さらに、給食のときの「黙食」は必要ないとしています。一方で、大声での会話を控えるなどの対応を求めています。

今回の新しいマニュアルは、日本政府による5類移行の方針に合わせた、感染対策の緩和の方向での改訂と言っていいでしょう。いつのまにか、コロナは収束気味で、以前よりは感染しにくくなっているという錯覚があるのではないでしょうか。

注意しなければいけないのは、SARS-CoV-2の性質も長期コロナ症を含めたCOVID-19の病態も基本的に変わっていないということです。感染力で言えば、インフルエンザや風邪のウイルスに近づくどころか、逆の方向へどんどん強くなっています。感染力が強くなったウイルスに対して、感染対策を緩和すれば今後どうなるか、火を見るより明らかです。

おわりに

UNICEFの動画解説は、リスクコミュニケーションの基本どおり、問題に対して何をすべきか、何を知っておくべき、がしっかりと押さえられています。感染しないようにできる限りのことをすることが重要であるとした上で、その防止策として予防接種、物理的距離確保、マスク着用、換気を挙げています。

日本のリスコミは全く逆で、「何をしなくてよいか」や観念的なことが優先的に伝えられ、その役割を果たしていません。厚労省の「個人の主体的な選択を尊重し、着用は個人の判断に委ねることになりました」というのも、文科省の「基本的にマスクの着用を求めない」というのもそうです。何をすべきかという基本が優先事項として抜けているのです。

文科省厚労省も保護者も、子どもの長期コロナ症についてはほとんど無関心のように思えます。以前考えられたよりも、長期コロナ症は持続期間が長く、発症時期も遅く出る場合があることが報告されています [4]。その意味においても、感染対策が緩和されたいまということを考えても、長期コロナ症を防止するために一義的に感染しないことの重要性を再認識すべきと思います。 

引用記事・文献

[1] 厚生労働省: 新型コロナウイルス感染症の罹患後症状(いわゆる後遺症)に関するQ&A. https://www.mhlw.go.jp/stf/seisakunitsuite/bunya/kenkou_iryou/kouisyou_qa.html

[2] UNICEF: What parents need to know about long COVID in children. https://www.unicef.org/parenting/health/long-COVID-children

[3] NHK NEWS WEB: 4月からの学校“マスク着用求めず” 文科省がマニュアルを通知. 2023.03.17. https://www3.nhk.or.jp/news/html/20230317/k10014011151000.html

[4] Miller, J.: Who Is Most at Risk for Long COVID? Harvard Medical School News & Research. March 9, 2023. https://hms.harvard.edu/news/who-most-risk-long-covid?utm_source=twitter

引用したブログ記事

2022年4月21日 治っていないコロナの病気を後遺症とよぶべきでない

2020年10月12日 "Long COVID"という病気

                    

カテゴリー:感染症とCOVID-19(2023年)

SARS-CoV-2感染はDNAを損傷させる

カテゴリー:感染症とCOVID-19(2023年)

はじめに

新型コロナウイルス感染症(COVID-19)について、日本ではインフルエンザ並みとか風邪のようなものだという声がしばしば聞こえてきますが、大きな誤解です。いまだに当初の呼吸器系の疾患という先入観から抜けきれない、ガラパゴス的思考に支配されているのでしょう。日本政府のリスクコミュニケーションやメディア報道に大きな責任があることは否めないと思います。

COVID-19は全身性の疾患であり、循環器系統や脳にダメージを与え、細胞老化を引き起こし、一部の患者にとっては長期コロナ症(long COVID)のリスクがあります。ワクチンの普及によって見かけ上重篤化する率は減りましたが、高齢者、基礎疾患を有する人、免疫不全者などの脆弱者にとっては、なお致死リスクの高い病気です。長期コロナ症は年齢に関係なく、全ての人に起こります。

原因ウイルスであるSARS-CoV-2は、人類の感染症との戦いの歴史のなかでも、最も強い感染力をもつ病原体に進化し、容易に流行を起こすようになりました。そしてこのウイルスのもつ病態に関連する様々な性質が明らかにされつつあります。

今回、Nature Cell Biology誌に、SARS-CoV-2が宿主のDNAを損傷させ、これが細胞老化に繋がるという重要な機構が報告されました [1](下図)。ウイルス感染とDNA損傷に関わる知見は先行研究でも示されており、その中の一つとして、in vitro の実験ですが、スパイクタンパク質が核内に局在し、主要なDNA修復タンパク質であるBRCA1および53BP1の損傷部位へのリクルートを邪魔することにより、DNA損傷修復を阻害するというのがあります [2]

とてもコロナは「風邪のようなものだ」とは言ってられない要素がまた加わりました。このブログ記事で紹介したいと思います。

1. 研究の要旨

まず、今回の論文のアブストラクトをそのまま翻訳して以下に示します。

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重症急性呼吸器症候群コロナウイルス2(SARS-CoV-2)は、COVID-19パンデミックの原因となったRNAウイルスである。SARS-CoV-2はいくつかの細胞内経路を変化させることが報告されているにもかかわらず、DNAの正常性(完全であること)に対する影響やそのメカニズムは依然として不明である。この報告では、SARS-CoV-2がDNA損傷を引き起こし、DNA損傷応答の変化を誘発することを示す。その機構は、SARS-CoV-2のタンパク質ORF6とNSP13は、それぞれプロテアソームオートファジーを通じて、DNA損傷応答キナーゼCHK1の分解を引き起こすというものである。CHK1の欠損はデオキシヌクレオシド三リン酸(dNTP)の不足を招き、S期進行の障害、DNA損傷、炎症性経路の活性化、細胞老化の原因となる。デオキシヌクレオシドを補充すると、それが軽減される。さらに、SARS-CoV-2のNタンパクは、損傷によって誘導された長鎖ノンコーディングRNAを妨害することによって53BP1のフォーカル・リクルーティングを損ない、DNA修復を低下させる。主要な観察結果は、SARS-CoV-2感染マウスおよびCOVID-19患者において再現された。SARS-CoV-2は、dNTPを減らしてリボヌクレオシド三リン酸レベルを上昇させ、複製を促進し、損傷誘導型ロングノンコーディングRNAの生物学的機構を乗っ取ることによって、ゲノムの完全性を脅かし、DNA損傷応答の活性化、炎症および細胞老化の誘導に変化をもたらすと考えられる。

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このアブストラクトの理解を助けるために、以下に補足説明を付け加えます。

用語の補足説明

プロテアソーム(proteasome)とオートファジー(autophagy):真核生物の細胞内で進化的に保存されされているユビキチン・プロテアソーム系とオートファジー・リソソーム系という二つのタンパク質分解系

長鎖ノンコーディングRNA(long non-coding RNAs):タンパク質をコードしない長鎖(200塩基以上)のRNA

53BPI:DNA損傷(切断)の修復とシグナル伝達に関わるタンパク質(p53結合タンパク1)

フォーカルリクルーティング(focal recruitment):DNA損傷が起きた場合に損傷場所に53BPIが集積すること

簡単に言うと、私たちの細胞には、遺伝情報を司るDNAが障害を受けるとそれを正常に戻す修復機構が備わっていますが、SARS-CoV-2はその修復応答の役割を担うDNA損傷応答キナーゼCHK1を分解してしまう(dNTP不足に至らせる)ことでDNA損傷を引き起こす、そしてDNA修復に関わる53BPIの活性化も阻害してDNA修復を低下させるということです。このように、SARS-CoV-2は、宿主のdNTPを減らすことで逆に自らのゲノムの材料であるリボヌクレオシド三リン酸(rNTP)レベルを上昇させ、複製に利用します。つまり、宿主のDNA合成機構の一部を乗っ取って、増殖するということになります。

本研究によって、SARS-CoV-2感染によるゲノムの完全性への影響と、COVID-19患者に見られる炎症反応や最近報告されたウイルスによる細胞老化への寄与が明らかになりました。

2. 研究の背景、成果、意義

SARS-CoV-2は約30kbのRNAゲノムをもちます。そこには、16種類の非構造タンパク質(NSP)、ヌクレオカプシド(N)タンパク質などの4種類の構造タンパク質、アクセサリータンパク質6種類を含む26種類のポリペプチドがコードされています。

ウイルス感染は、宿主のタンパク分解機構であるオートファジー経路やユビキチン-プロテアソームシステム(UPS)、DNA損傷応答(DNA damage response、DDRなど、いくつかの細胞内経路に影響を及ぼします。DDRは、DNA損傷を感知し、その存在を知らせ、修復を調整する経路のネットワークです。

しかし、いくつかのDNAウイルスとDDRの相互作用は研究されているものの、RNAウイルスについては、これまであまり知られていませんでした。SARS-CoV-2の感染は、DDR機構の構成要素に関与することが示唆されていますが、SARS-CoV-2のゲノム完全性とDDR関与への影響に関する徹底した特徴づけと機構解明は、まだなされていませんでした。

ウイルスは、自身の複製を促進する戦略として、DDRを含む宿主の細胞活動をハイジャックすることが知られています。これは、細胞に有害な影響を及ぼし、ゲノムの不安定化につながる可能性があります。SARS-CoV-2感染は、様々な宿主経路を変化させ、いくつかのDDRマーカーの活性化と老化に関係することが既に報告されていますが、この相互作用は、いくつかのDDR阻害剤がSARS-CoV-2の複製を減少させるという現象によっても示唆されるものです。

この研究では、SARS-CoV-2感染がDNA損傷を引き起こすことが、不死細胞株、ヒトの培養細胞、マウスとヒトのin vivoで観察されました。SARS-CoV-2感染によるDNA損傷の蓄積には、細胞内のdNTP代謝に影響を与え、DNA複製を阻害するものと、53BP1の活性化を阻害し、DNA修復を低下させるという、少なくとも2つの機構があることがわかりました。SARS-CoV-2に感染すると、CHK1およびP53とともに減少します。このようなDDR因子の分解は、宿主の防御を無効にするという、様々なウイルスに共通する戦略です。

CHK1は、細胞周期進行の重要な制御因子であるE2F転写因子の発現を制御し、その結果、RRM2(ribonucleoside-diphosphate reductase subunit M2)遺伝子を制御してS期におけるDNA合成を可能にすることが知られています。研究チームは、SARS-CoV-2感染により、CHK1の欠損とそれに伴うRRM2の減少、dNTP不足とS期の延長を引き起こし、DNA複製ストレスとDNA損傷の発生とが一致することを実証しました。この一連のイベントは、細胞老化と炎症性経路の活性化につながります。

重要な知見として、SARS-CoV-2感染細胞にデオキシヌクレオシドを投与すると、ウイルスによって誘発されたDNA損傷、DDR活性化、サイトカイン発現が減少したことです。すなわち、これらの事象がdNTP枯渇が原因となって起こっていることを証明したことになります。

著者らは、これらの現象を、SARS-CoV-2がrNTPを大量に必要とすることによるものだと述べています。SARS-CoV-2に感染した細胞の全RNAのうち、なんと3分の2がウイルス由来であることが報告されています。ウイルスは進化的に、増殖のためのrNTPレベルを高める必要に迫られてきたというわけです。

rNTPレベルを上げる一つの方法は、CHK1レベルとRM2活性を低下させ、その結果としてdNTPをrNTPを蓄積に向けさせることです。おもしろいことに、DNAウイルスであるHPV31は、これとは似ているけれども逆の機構によって増殖します。すなわち、このウイルスでは、RRM2を増加させてdNTPを増やし、ゲノムの複製を促進します。

研究チームは、CHK1分解を引き起こすSARS-CoV-2のタンパク質は、少なくとも二つあることを明らかにしました。一つはORF6であり、核膜孔複合体と結合することにより、CHK1の核内取り込みを阻害し、CHK1の細胞質への誤局在化とそれに伴うプロテアソーム分解をもたらします。もう一つはNSP13であり、オートファジー経路を通じてCHK1の枯渇をもたらします。これは、オートファジー阻害剤または主要なオートファジー因子に対するRNAiで処理するとCHK1レベルが回復することからわかりました。

SARS-CoV-2は、DNA損傷の誘発に加えて、その修復を阻害します。この研究では、感染細胞では、タンパク質レベルは変化していないにもかかわらず、53BP1タンパクがDDRに対して集積形成する能力が著しく低下していることが観察されました。著者らは、SARS-CoV-2のNタンパクはRNA結合タンパクであり、長鎖ノンコーディングRNAの結合と競合することによって、二本鎖DNA損傷における53BP1の凝縮を阻害していると考えています。

今回のデータは、Nタンパク質の核内での役割を示唆しています。SARS-CoVSARS-CoV-2のNタンパク質はともに機能的な核局在シグナルを持ちますが、核局在は一部のみです。しかし、系統的研究により、Nタンパク質の核局在を促進するモチーフの強化とコロナウイルスの病原性は相関しています。

炎症経路の過剰活性化は、致命的なCOVID-19の症例の原因となっています。DNA損傷の蓄積と慢性的なDDRの活性化は、炎症の強力な誘発因子です。先行研究で示されているように、本研究でも、培養細胞のSARS-CoV-2感染は、CHK1枯渇と同様に、cGAS/STING、STAT1、p38/MAPKなどの複数の炎症性シグナル経路を活性化することが観察されました。CHK1-RRM2経路の破壊が細胞老化を引き起こすという既往研究報告も今回の証拠から支持されました。SARS-CoV-2を介したCHK1欠損が、老化に関連した分泌表現型に似た炎症性プログラムを促進すると考えられるわけです。

研究チームは、SARS-CoV-2感染により、細胞老化のマーカーと相関するDNA損傷の蓄積が起こることを、初代細胞およびin vivoで観察しています。特に、感染した肺細胞は高いp21レベルを発現し、多形核および単球系炎症要素はp16を上昇させることがわかりました。

以上のことから、SARS-CoV-2が誘発するDNA損傷は、細胞内在性の炎症誘発プログラムを引き起こし、免疫反応と協調して、COVID-19患者で観察される強い炎症反応を促進させることが示されました。最近、重症のCOVID-19患者で報告された老化の表現型は、今回の観察結果と一致します。

最後に、著者らは、SARS-CoV-2感染後の細胞老化の特徴である持続的なDNA損傷とDDR活性化が長期コロナ症(long COVID)として知られる病態の慢性化に寄与しているかどうか、興味ある課題として明らかにすべきと結んでいます。

おわりに

最後に、再度今回の研究の知見を、再度、以下の7つとしてまとめたいと思います。

1) SARS-CoV-2は、DNA損傷とDNA修復応答活性化の変化を引き起こす、2) SARS-CoV-2はCHK1レベルを低下させることでdNTP不足をもたらす、3) CHK1の欠損だけで、DNA損傷と炎症を引き起こすのに十分である、4) 2つのタンパク質(ORF6とNSP13)がCHK1の分解を引き起こす、5) ORF6はプロテアソーム経路を通じてCHK1の分解を引き起こす、6) NSP13はオートファジーを通じてCHK1の分解を引き起こす、7) Nタンパク質は二本鎖DNA損傷での53BP1のリクルートを阻害し、53BP1の非相同末端結合を阻害する。

SARS-CoV-2が宿主のDNA損傷を引き起こし、その修復機構を阻害し、COVID-19の炎症を誘発し、細胞老化を促進するというのは、あらためて恐い話だと思います。しかも、これが長期コロナ症にも関係する可能性も考えられるわけで、今後の解明が必要でしょう。重篤化リスクが高い脆弱者はもちろんのこと、健康人も罹ってはいけない病気だということを思い知らされる今回の論文でした。

先行研究では、スパイクタンパク質が適応免疫において有効なV(D)J組換えに必要なDNA損傷修復を著しく阻害することが報告されており、完全長スパイクベースのワクチンの副作用の可能性も指摘されています [2]

引用文献

[1] Gioia, U. et al. SARS-CoV-2 infection induces DNA damage, through CHK1 degradation and impaired 53BP1 recruitment, and cellular senescence. Nat. Cell Biol. Published March 9, 2023. https://doi.org/10.1038/s41556-023-01096-x

[2] Jiang, H. & Mei, Y.-F.: SARS-CoV-2 spike impairs DNA damage repair and inhibits V(D)J recombination in vitro. Viruses 13, 2056 (2021). https://doi.org/10.3390/v13102056
                    

カテゴリー:感染症とCOVID-19(2023年)

遮断されるパンデミック情報

カテゴリー:感染症とCOVID-19(2023年)

ジョンズ・ホプキンス大学(The Johns Hopkins University)は、COVID-19パンデミックが始まって以来、公に貴重な流行情報を提供してきました。しかし、今年3月10日でこの情報提供を終了したようです。NHKもニュースとして伝えています [1]

ジョンズ・ホプキンス・コロナウィルス・リソース・センター(The Johns Hopkins Coronavirus Resource Center, JHU CRC)のホームページを見ると、CRCの意義と更新終了理由が以下のように記されています(下図、翻訳文を載せます)。

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●JHU CRCは今どうなっているのか?

ジョンズ・ホプキンス・コロナウィルス・リソース・センターは、パンデミックデータをほぼリアルタイムで公に提供し、感染症追跡の新しい基準を確立した。これは、2020年1月22日、システム科学・工学センターと応用物理学研究所が運営するCOVID-19ダッシュボードとして始まった。しかし、この赤い点の地図は、公衆衛生上の大災害を監視するための世界的なハブへと急速に発展していった。2020年3月3日までに、ジョンズ・ホプキンスはこのサイトを、コロナウイルス・リソース・センター(CRC)として知られる生データと独立した専門家による分析の包括的なコレクションに拡大した。これは- ジョンズ・ホプキンス大学・医学部全体の世界的に有名な専門知識を活用した事業である。

●なぜ私たちは止めたのか?

CRCは、3年間にわたり24時間365日体制で運営されてきたが、米国各州の報告頻度が低下したため、データ収集活動を停止することにした。また停止の追加理由として、CRCの活動を終了しても大丈夫なくらいに連邦政府パンデミックデータの追跡も改善している。当初から、この取り組みは米国政府が提供すべきものであった。これは、ジョンズ・ホプキンスがパンデミックが終息したと考えていることを意味しない。そうではないのだ。この機関は、COVID-19に関する最先端の洞察を一般市民や政策立案者に提供するリーダー的な役割を維持することに引き続き尽力していく。詳細は下記を参照いただきたい。

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JHU CRCは、このようなデータベース事業は政府主導でやるべきだと強調しています。連邦政府パンデミックデータの追跡は改善された言っていますが、JHUのデータベースが更新されなくなることは、私たちにとってはきわめて残念であり、心細くなります。

JHU CRCは、「これは、ジョンズ・ホプキンスがパンデミックが終了したと考えていることを意味するものではない」と二度押しで述べています(以下引用)。

This does not mean Johns Hopkins believes the pandemic is over. It is not.

もちろん、パンデミックは継続中です。昨年中に見通しが立つだろうと言わば楽観視していた世界保健機構(WHO)も、いまは慎重な姿勢を崩していません。パンデミックの終息宣言ができるのはWHOのみです。

その意味で、JHU CRC のデータ更新終了は、世界の流行状況を掴むための一手段が無くなるということで痛いです。フリーに参照できるデータベースと言えば、Our World in Dataがありますが、こちらも感染者数、死者数など、どういうわけか3月7日から1週間更新されていません(図1)。これはデータソースになっているWHOのデータ [2] が、その日から更新されていないためと思われます。

図1. 過去1年間におけるG7諸国の累積人口比COVID-19死者数(Our World in Dataより転載、更新日2023年3月7日).

図1を見ると、米国とカナダの累積死者数のラインが途中から階段状になっています。これは、データがリアルタイムで報告されなくなり、一定期間ごとにまとめて報告されるようになったためです。

WHOは、最近の傾向として、各国がデータ照合を行い、総数から大量の症例または死亡を削除していると述べています [2]。そして、そのようなデータは、適宜、新規症例数/新規死亡数において負の数として反映されことがあり、そのような調整が行われた場合に、ユーザーが識別することができるだろうと述べています。

このように、ここにきて、各国のCOVID-19の統計と報告がいい加減になってきたこともあり、公的なデータベースの更新も従来ほどに意味をなさなくなっているということがあります。日本でもCOVID-19の感染症法上の5類移行が決定していますが、そうなれば日々の感染者数や死者数は報告されなくなり、流行状況はほとんどわからなくなります。私たちは、ますますパンデミック情報から遠くなってしまうという困難性に直面しているでしょう。

図1から分かるように、統計が不十分とは言え、この一年の欧米のCOVID-19死者数はほぼ直線的に累積されており、一定程度の流行が続いていることがうかがわれます。波を繰り返すも日本も然りで、この一年で人口比の死者数はG7の仲間入りをしました。翻って、日本の専門家は相変わらず、他国に比べて日本は人口比死者数が少ないという発言を繰り返しており、嘆かわしい限りです。これについて私は以下にようにツイートしました。

厄介なことに、COVID-19は人獣共通の感染症となりました(→スピルオーバー:ヒトー野生動物間の新型コロナ感染)。人類のパンデミックが収束したとしてもスピルオーバーによって、新しい変異体による流行波を繰り返す恐さがあります。

SARS-CoV-2自身、自然に進化したウイルスとは思えないほどきわめて特異的なゲノム構造を有します。スパイク塩基性解裂部位をもち、受容体としてのACE2に結合するだけでなく膜貫通型プロテアーゼTMPRSS2ニューロピリン1などの侵入因子があり、かつ核移行シグナルをもちます。その病態は全身性でかつ長期の疾患を起こすなど、過去に例がないほどの病原体です。

この先、人類や哺乳類の大悲劇とならないことを祈るばかりですが、これからパンデミック情報に触れる機会がぐっと減らされることが大きな懸念材料です。

引用記事

[1] NHK NEWS WEB: 世界の感染状況まとめてきた米大学 コロナ特設サイト更新終了. 2023.03.12. https://www3.nhk.or.jp/news/html/20230312/k10014005721000.html

[2] World Health Organization: WHO Coronavirus (COVID-19) Dashboard. https://covid19.who.int/data

引用したブログ記事

2022年3月9日 スピルオーバー:ヒトー野生動物間の新型コロナ感染

                    

カテゴリー:感染症とCOVID-19(2023年)

昆虫食を巡る騒動ータンパク質危機はあるのか?

カテゴリー:食と環境

はじめに

メディアやSNS上で昆虫食が話題になっています。それも日本では圧倒的に「昆虫を食べる」ことへの拒否感という形で現れているようです。インターネット番組「ABEMAヒルズ」では、実に約9割の人が昆虫食に抵抗感もつことが紹介されました [1]SNS上では昆虫食の危険性や政治的思惑を指摘するコメントも散見されます。

ここにいまの日本人の特質が出ているように思います。つまり、未知なるものへの慎重さ・警戒という感情に加えて、昆虫への偏見(気持ち悪い)と「食べるものではない」という固定観念が合わさった感覚が反映されているのではないでしょうか。実は、アフリカ、中南米、アジアを中心にすでに20億の人々が昆虫を食しています [2] が、この事実を知らないと拒否に繋がりやすいでしょう。忌避感を持つ人は、もちろん食べたこともないと思われます。

海外に目を向けなくとも、日本でもイナゴ類や蜂の子を食する伝統昆虫食文化があります。私が子どもの頃、祖父からよく「バッタを穫ってこい」と言われて、集めてきてはそれを佃煮にしてもらって食べていました。祖父はトノサマバッタを見ると「佃煮にするのはもったいない」と言って別に取り出し、素揚げにして食べさせてくれたほどです。

70代以上の方で田舎育ちの人は、必ずしも多くはないとしても、このような経験もあるでしょう。いまはごく当たり前の肉食は私の子どもの頃の庶民の食卓にはなく、肉と言えば鯨肉でした。ちなみに小学校の給食で肉が出たという記憶はありません。ミルクも脱脂粉乳でした。一方で、肉類が食卓を飾ることが子どもの頃からの常識である今の現役世代の人たちにとっては、「何で昆虫食なんだ?」という思いは強いのではないでしょうか。

日本人の昆虫への拒否感は、私がツイッターで昆虫食擁護の立場からコメントしたところ、一気にフォローワーが減ったことでもわかります。私の専門領域は生命科学微生物学、環境科学ですが、以前、複数の民間会社で食品開発や飼料開発に携わった経験もあって、大学では「食の安全」や「食と環境」という講義も担当してきました。ここで「なぜ昆虫食なのか」について解説してみたいと思います。

結論として、いま日本にいる私たちは昆虫を食べる必要はありませんが、将来的にはそうならざるを得ない可能性があるということ、そしてその可能性に対する準備を怠ると、一気にタンパク源不足になる可能性があるということです。いま主要なタンパク源である肉や魚をいつまでも食べられるという思考は、修正する必要があるでしょう。昆虫に限らず代替タンパク源を求めていくことは必須なのです。

1. 昆虫食への流れ

まず、言っておきたいこととして、いまのコオロギ食を巡るSNS上での否定的なコメントには、文献を挙げて安全性の問題に触れているものがありますが、事実誤認があるので、ここで指摘しておきたいと思います。私が知る限り、世界各国の担当公的機関は全て昆虫食を推進する立場を示しています。

たとえば、内閣府食品安全委員会は、2018年に出版されたヨーロッパイエコオロギ(Acheta domesticus)食品の潜在的リスクに関する欧州食品安全機関(EFSA)の論文を要約した記事 [3] を掲載しましたが、この記事を引用しながら「コオロギ食は危険」とするインターネット、SNS上のコメントが散見されます。しかし、このEFSA論文は、昆虫食品を市場化する場合の潜在的リスクを挙げて、それらに留意しなければならないという「昆虫食推進」の立場から述べたものです。その後、2022年に出版されたEFSA論文では、コオロギ粉末食品の安全性に関する科学的見解をまとめており [4]内閣府食品安全委員会の要約記事 [5] も出ています。

このブログ記事では、すでに世界で20億人が昆虫を食べているいる事実を踏まえた上で、昆虫食を押し進める世界の流れとその理由という観点から解説したいと思います。

いまにわかに流布してきた日本の昆虫食の情報については、フードテック官民協議会が主な発信源の一つではないかと思われます [6]。これは農林水産省をコアとする産学官のステークホルダ間の組織(2020年10月設立)で、300以上の賛同団体や企業が名を連ねています。食に関する新技術開発、食料安全保障の強化、新市場の開拓推進などを目的とし、ロードマップとして「植物由来の代替タンパク質源」「昆虫食・昆虫飼料」「スマート育種のうちゲノム編集」「細胞性食品」「食品産業の自動化・省力化」「情報技術による人の健康実現」の6つを掲げています [6]

昆虫食への流れは、世界の食料需要の増大に対応した持続可能な食料供給を実現する試みの一つであるわけですが、当協議会を含めた昆虫食推進派による進め方は、昆虫食品に関する「マーケットの創出」の意識が強く出ているように感じられます。平たく言えば、このままだと拒否感の強い昆虫食は広がりにくいので、いかにしてそれを商業ベースに乗せるかというキャンペーンの展開であり、いささか政治的後押しの気配も感じられます。

もちろん商業として成り立たなければ、昆虫食も定着しないわけですが、新しいビジネスとしての昆虫食が前のめりに押し出されている印象は否めません。一方で、海外ではもっと新しいタンパク食品として「いかに拒否感をなくすか」という点からの論調・進め方が多い感じです。海外では日本ほどの拒否感はないようですが、それでも新しい食品、未知なるものへの、いささかのためらい感はあるようです。米国科学アカデミー紀要(PNAS)には、この点から解説した論文が掲載されています [7]

この論文でも指摘されていますが、食べたことのない食品については、人々は当然抵抗感をもちますが(いわゆる食べず嫌い)、慣れがそれなくしていくことはよくあることです。例として、生魚を食べる習慣のなかった欧米では、寿司や刺身に対して当初拒否感があったにも関わらず、その後すっかり定着したことが述べられています。

そして、「一度、地上の昆虫を食べたら、次は虫全体を食べようと思う人が多い」というジョセフ・ユンの話が紹介されています。彼はシェフであり、食用昆虫への理解を深めるための組織「Brooklyn Bugs」の創設者です。

2. タンパク質の危機?

ところで、昆虫食を導入する理由の一つとして、タンパク質の不足を唱ういわゆる「タンパク危機」があると言われていますが、本当でしょうか。結論から言うと、現状でタンパク質が不足していることは全くありません。むしろ過剰気味です。

世界人口を約78億人として、1人に必要なタンパク質摂取量を 60 g/日 [8] とすると、全世界で必要なタンパク量は年間1.7億トンとなります。この必要量に対するタンパク供給は現在ほぼ充足されており(〜2億トン/年)、世界人口の1人当たりでみれば不足しているとは言えません。むしろ、世界の国の90%においては、平均的タンパク消費量は栄養としての必要量よりも多いと言われています [8, 9]。これには、先進諸国を中心として肉類の飽食化があり、加えていわゆる「食品ロス」があるためです。

問題は、国・地域によって著しいタンパク質消費の偏りがあることと、それ(肉類生産)を維持するために大量の飼料生産が行なわれていること、そしてこれが持続可能か?ということです。

穀物および大豆の生産量は技術革新によって飛躍的に増加してますが、両者でその増加率を比べると、歪であることがわかります。すなわち、1960年代半ばからの統計でみると、人の主食である小麦や米は約3倍の増加量ですが、トウモロコシでは約5倍の増加大豆では実に約11倍の生産量増加になっています [10]

人が1日に必要なカロリーやタンパク質量は基本的に変わらないはずなのに、なぜこのような生産増加量の違いを生じるのでしょうか。それは、人口増加以上にGDP上昇が著しい新興国も含めた食生活の向上(肉食化)があり、飼料用途の作物生産により大きな影響を与えていると考えられるためです。現在、世界のトウモロコシの生産量の3割、大豆の生産量の7割が、畜産牛の飼育に使われています

つまり、先進国、新興国の食の向上・飽食化の要求を満たすために、トウモロコシや大豆の増産が行なわれてきたということであり、その上で成立している食の商業・経済システム(食の質と利便性、効率性)を維持する過程で、自ずから食品ロスを生じるということになったということです。儲けるためには捨ててまで生産する現在の歪な姿があるわけですが、これを是正するためには現ビジネルモデルの大変換が要求されますので、容易には行きません。

今後、人口増加と新興国の食生活の向上化によって肉を中心とするタンパク需要はますます高まっていきますが、そのしわ寄せとして先進国の肉消費に大きな影響を与えるでしょう。すなわち、先進国と新興国との間で肉の取り合いになり、現在の需要・供給のバランスが崩れることが予想されます。

一方で、タンパク質供給の著しい偏在もあります。WFP(国連食糧計画)が2022年9月に発表したところによれば、79カ国において、過去最高となる3億4900万人が深刻な飢餓(急性の食料不安)に苦しんでいます。この数は、COVID-19パンデミック以前の、2019年時点の1億3,500万人の約2.5倍に数字になります [11]

もし、これらの飢餓状態の是正と新興国の食の向上化のためにタンパク質供給を平準化しようとすると、現在の先進国での食生活と商業形態は維持できなくなります。この需要・供給のバランスの崩れ(需要が供給を上回ること)がいわゆる「タンパク質危機」と呼ばれているものの正体です。いずれにせよ、世界人口の増加、途上国の生活水準の向上による食肉需要の増加、その飼料である穀物への需要の増加という流れは止められません。需要に供給が追いつかなければ、当然価格高騰を招き、手に入りにくくなります。

この長期トレンドのなかで、いまはウクライナでの戦争という要素が加わり、価格高騰という流れはさらに加速化しています。この状況のなかで、なお先進国の食の要求を満たそうとすると、飼料用トウモロコシと大豆の生産面積と広げていくしかないわけですが、そこには物理的限界と環境問題が立ちはだかります(後述)。

3. 現在のタンパク源は大豆と魚粉

現在、人類が消費している年間2億トン近いタンパク質は、動物性(肉、魚、卵、およびその加工品など)および植物性(大豆およびその加工品など)のタンパク質です。しかし、肉を生産するためには、上記のように家畜飼育のための飼料が必要であり、それは結局植物性タンパク質(大豆)に行きつきます。私たちは肉からタンパク質を摂っているように思いがちですが、肉を大量に消費することは、大豆を大量に生産・消費することと同じことなのです。

たとえば肉牛を飼育する場合、粗飼料(いわゆる草)に加えて、その数倍から十倍の配合飼料が必要です。配合飼料はトウモロコシや大豆が中心で、つまるところ大豆タンパク質を牛肉タンパク質に変換していることになります。そして、日本の畜産の場合、配合飼料はほぼ輸入であって、価格と供給量の面で海外依存という構造的問題があります。

新興国の肉食拡大の長期トレンドのなかでは、いかに大豆の生産量を増加させるか(生産面積を広げるか)ということになりますが、これはもはや限界に来ています。飼料用途のトウモロコシや大豆生産は、後述するように、環境破壊と地球温暖化の元凶にもなっている現状があり、これ以上広げられないところまで来ているのです。

農林水産省によれば、牛肉 1 kgを生産するのに必要な穀物はトウモロコシ換算で11 kgです。これと比べると、豚肉および鶏肉の生産に必要な穀物量(それぞれ6 kg/kg、4 kg/kg)は、1/2〜1/3量になります。さらに、昆虫(ミールワーム)になると、牛肉の1/12倍の穀物量で済みます。

これを生産面積でみた場合どうなるでしょうか。たとえば、世界全体をインドの食生活のレベルで想定した場合に、生産面積削減の効果が最も高かったことが報告されています [12]。肉食に代わるタンパク源の消費では、50%を豆腐に切り替えた場合35%、昆虫タンパクにした場合34%、人工肉にした場合29%の生産面積削減効果があるとされ、肉食の50%を魚に切り替えた場合でも22%の削減効果があると報告されています。

やがてやってくるタンパク質の需要と供給のアンバランスと価格高騰に対処するためには、生産面積から考えて、肉食から代替タンパク質摂食への転換を図るべきなのですが、一度味を覚えた人類の肉食文化を変えることはなかなか難しいです。結局大豆などの植物性タンパク質を直接食べるという方向には大きく向かわず、部分的に人工肉生産の原料となることで、依然として大豆の生産面積を確保しなければならないということになるでしょう。その意味で、昆虫タンパク質、大豆に依存しないその他の代替タンパク質がどの程度食い込めるかが、鍵となると言えます。

一方、魚は天然魚介類の直接漁獲もありますが、近年は養殖魚が増加しています。国際連合食糧農業機関(FAO)によると、世界の魚介類需要量は2013–2015年平均で1.5億トンであり、2025年には1.8億トン近くに達すると予測されています [13]。このうち天然の魚介類は年9,000万トン程度で、ほぼ横ばいで推移すると予測され、今後の魚介類需要を満たせるかは水産養殖の増加にかかっていると言えるでしょう。

では、養殖のエサは何かと言えば、基本は魚粉です。魚の養殖に使われるエサは、生エサ(生魚)、モイストペレット(魚粉、魚油、生魚などの混合物)、ドライペレット(魚粉、大豆油カス、小麦粉などの混合物)があります。最も多く使われているのは、モイストペレット(いわゆる練り餌)で、主成分である魚粉の供給が鍵になっています。海外の場合は、トウモロコシ、大豆、小麦の配合飼料が使われています。

魚粉と言っても元々は海から穫れたカタクチイワシが原料です。イワシが穫れなければ話にならないことは当然ですが、イワシを含めて魚介類がいままでどおりに穫れるという保証はありません。なぜなら、この先、地球温暖化に伴う海水温の上昇と海洋酸性化という二重の環境変化が海の生態系に深刻な影響を与え、海産物が確保できなくなる可能性があるのです(→海洋の温暖化と酸性化)。

地球温暖化による海水温上昇は、現在の魚種の分布を大きく変えてしまいます。漁業の対象になっている表層魚は、高い海水温に耐えきれずに、北上化するかより深く潜っていくことになるでしょう。つまり、今の主要魚種は、今の漁場から急激に穫れなくなっていきます。住処を移動した魚種はやがて環境変化、エサの変化に耐えきれなくなり、それに酸性化も加わり、絶滅していく運命にあります。イワシが穫れなくなれば、魚粉も調達できなくなり、養殖もできなくなります。

4. 農業と環境問題

脱炭素が叫ばれる今日ですが、実は農業(林業、畜産、土地利用を含む)は温室効果ガスの主要発生源であり、全体の18%を占めます(図1)。世界の農業による温室効果ガスの発生を地域別にみると、アジアが最も多く44%を占めています(図2[14]。そして温室効果ガスの発生は年々増加し続けています。その年増加率は全世界で8%になり、アフリカでの増加(1.6%)が大きくなっています。

図1. 温室効果ガス発生の発生源(Our World in Dataより転載、農業および耕地からの発生は緑色の部分).

図2. 農業による温室効果ガス発生の大陸別の割合(文献 [14] より転載).

農業部門での発生源(炭素換算)の割合をみると、牛のげっぷが最大で40%を占めます。次いで、放牧地に放置された糞尿(16%)、化学肥料(12%)、水田(10%)と続きます(図3)。

牛のげっぷや水田から排出される温室効果ガスはメタン(CH4です。二酸化炭素の約28倍(IPCC第5次報告書)の温暖化係数をもつので、少量でも排出の影響は大です。

発生させるのはメタン生成アーキアという微生物であり、一方で、発生したメタンを酸化分解するメタン酸化細菌もいます。本来の生物地球化学的循環(biogeochemical cycle)のなかでは、生物学的メタン発生とメタン分解は釣り合っていてメタンが大気中に増えることはありません。しかし、人類が化石エネルギーを投入して化学肥料をつくり、過剰な作物生産と畜産を行なった分、分解が間に合わないメタンが排出され、大気中に溜まり続けているわけです。

化学肥料(窒素肥料)は二重の意味で環境に負荷をかけています。まず、この生産に用いられるハーバーボッシュは高温、高圧を要するために大量の化石燃料が投入されます。生産段階で大量のCO2を発生させるわけです。そして実際に畑には生産を効率的にするために過剰に投入されます。過剰分の窒素化合物は酸化と還元のプロセスを経て最終的に脱窒されますが、一般に還元力が不足気味で、中間代謝物の亜酸化窒素(N2O)を発生させます。これはCO2の265倍(IPCC第5次報告書)の温暖化係数をもちます。

図3. 農業における温室効果ガスの発生源(文献 [14] より転載).

このように農業や関連する土地利用は温室効果ガスの主要発生源の一つであるわけですが、地球環境破壊の元凶にもなっています。

ブラジルの国立宇宙研究所(INPE)は、2019年だけでアマゾン熱帯雨林は1万1088平方キロが消失したことを報告しましたが [15]、この消失は放牧や飼料生産を目的とする大豆畑への転換が主な原因です [10]。アマゾンの熱帯雨林は地球規模での気候の緩衝地帯として機能しているため、その減少は周辺国への影響にとどまらず、世界的な気候変動と農業生産の低下をもたらす可能性があります。

エコロジカル・フットポイント(=非生物学的循環の温室効果ガスの吸収、人造物占有、食料生産、紙・木材等の生産に必要な合計土地面積)は、2014年時点で地球1.7個分になっており [16]、需要増加に対するこれ以上の供給空間拡大は避ける必要があります。でないと温室効果ガスの排出を促進するだけになるからです。

ちなみに、人間1人が必要とする生産可能な土地面積は、世界平均1.8 haに対して、米国で5.1 ha、日本で2.3 haであり、先進国の資源の過剰消費の実態を示しています。すなわち、高タンパクの飽食を続けてまでも、大量の食品ロスを生んでまでも、消費のための生産空間拡大を続け、そのための商業・経済モデルを維持し、それが環境破壊と気候変動をもたらしている実態があるわけです。

最も危惧されることは、大規模な気候変動と地球温暖化によって、農業に作付け面積だけは計算できない大きな影響が出ることです(つまり作物自体が穫れなくなる)。地下水の枯渇の問題もあります。牛肉1 kgをつくるのに、その元である作物生産に膨大な量の水(約1万5千L)が必要ですが、いまその供給源である地下水の30年後の利用可能量の激減が予測されているのです [17]

それでも人類はゲノム編集や最新テクノロジーなどを駆使して対応しようとするでしょうが、所詮生物地球化学的循環からはみ出した営みは悪循環に陥るだけでしょう。

海はこのままだとどうにもならなくなる可能性があります。海水温の上昇と海洋酸性化にいつまで漁業は耐えられるでしょうか。

おわりに

昆虫食を巡るいまの日本における論争は、少し矮小化されているきらいがあります。本質は、昆虫食はビジネス化できるか?とか、昆虫食は嫌だとか、という問題ではなく、新興国を中心に世界のタンパク質需要が増加していく長期トレンドの中で、その需要と供給のバランスと持続可能性をどのように考えるかということなのです。

私たちがいま贅沢に食している肉や魚は、将来今のような形態では食べられなくなることを想像しなければなりません。上述したとおり、食料不足と価格高騰(タンパク質源の取り合い)、地球環境破壊、気候変動の観点から「代替タンパク質」の市場拡大が予測・期待されているわけです。その一つの選択が昆虫食なのです。

昆虫食でさえ、そのエサとなるものは一次生産物(植物)であり、気候変動に大きな影響を受けます。個人的に言えば、究極的には、無尽蔵の大気中成分(気体種であるCO2、CH4、N2)からタンパク質を賄う技術が必要だろうと思います。この技術を可能とするメディエーターは微生物です。つまり微生物タンパク(single-cell protein)の生産です。

すでに、世界的には、自然再生エネルギーによる水の電気分解で得られるH2とO2を利用した炭素固定を行なう試み、地中から、あるいは廃液処理で出るメタンを微生物タンパクに変換し、魚の飼料にする試み、光合成機能と細胞外電子伝達を利用した微生物タンパク生産の試み、などが行なわれています。残念ながら、日本はこの点で遅れています。

引用文献・記事

[1] ABEMAヒルズ: 約9割が「昆虫食」に抵抗感 専門家は「特に驚きはない」 必要なのは酒やたばこのような「嗜好品」としての認知? ABEMA TIMES 2023.02.28. https://times.abema.tv/articles/-/10069201

[2] A. M. Liceaga, J. E. et al.: Hernández-Mendoza, Insects as an alternative protein source. Annu. Rev. Food Sci. Technol. 13, 2.1–2.16 (2022). https://doi.org/10.1146/annurev-food-052720-112443

[3] 食品安全委員会: 欧州食品安全機関(EFSA)、新食品としてのヨーロッパイエコオロギ(Acheta domesticus)についてリスクプロファイルを公表. 2018.09.21. https://www.fsc.go.jp/fsciis/foodSafetyMaterial/show/syu05010960149

[4] EFSA Panel on Nutrition, Novel Foods and Food Allergens (NDA): Safety of partially defatted house cricket (Acheta domesticus) powder as a novel food pursuant to Regulation (EU) 2015/2283. efsa J. May 13, 2022. https://doi.org/10.2903/j.efsa.2022.7258

[5] 食品安全委員会: 欧州食品安全機関(EFSA)、新食品としてのヨーロッパイエコオロギ(Acheta domesticus)の部分脱脂粉末の安全性に関する科学的意見書を公表. 2022.05.13. https://www.fsc.go.jp/fsciis/foodSafetyMaterial/show/syu05830690149

[6] CNET Japan: フードテック官民協議会、推進ビジョンとロードマップ案を発表--概要レポート. Yahoo Japanニュース. 2023.03.02. https://news.yahoo.co.jp/articles/90b1f92feaafb1f33bab8ec01046fcc32a23b4b9?page=1

[7] Beans, C.: How to convince people to eat insects. Proc. Natl. Acad. Sci. USA. 119, e2217537119 (2022). https://doi.org/10.1073/pnas.2217537119

[8] Joint FAO/WHO/UNU Expert Consultation on Protein and Amino Acid Requirements in Human Nutrition (2002 : Geneva, Switzerland), Food and Agriculture Organization of the United Nations, World Health Organization & United Nations University. (2007). Protein and amino acid requirements in human nutrition : report of a joint FAO/WHO/UNU expert consultation. World Health Organization. https://apps.who.int/iris/handle/10665/43411.

[9] Forum for the Future: Protein Challenge 2040. https://www.forumforthefuture.org/protein-challenge

[10] WWF世界自然保護基金): 拡大する大豆栽培−影響と解決策(邦訳).  2014. https://www.wwf.or.jp/activities/upfiles/20140707wwf_soy.pdf

[11] WFP (国連世界食糧計画): 世界的な食料危機. https://ja.wfp.org/global-hunger-crisis 

[12] Alexander, P. et al.: Could consumption of insects, cultured meat or imitation meat reduce global agricultural land use? Global Food Secur. 15, 22–32 (2017). https://doi.org/10.1016/j.gfs.2017.04.001

[13] Food and Agriculture Organization of the United Nations: The State of Food Security and Nutrition in the World 2019. https://www.fao.org/3/ca5162en/ca5162en.pdf

[14] Food and Agriculture Organization of the United Nations:: Greenhousegas Emissions from Agriculture, Forestry and Other Land Use. https://www.fao.org/3/i6340e/i6340e.pdf

[15] Butler, R. A.: Brazil revises deforestation data: Amazon rainforest loss topped 10,000 sq km in 2019. MONGABAY June 10, 2020. https://news.mongabay.com/2020/06/brazil-revises-deforestation-data-amazon-rainforest-loss-topped-10000-sq-km-in-2019/

[16] Global Footprint Networks: Ecological footprint. https://www.footprintnetwork.org/our-work/ecological-footprint/

[17] De Graaf, I. E. M. et al.: Environmental flow limits to global groundwater pumping. Nature 574, 90–94 (2019). https://www.nature.com/articles/s41586-019-1594-4

引用したブログ記事

2018年4月5日 海洋の温暖化と酸性化

              

カテゴリー:食と環境