Dr. Tairaのブログ

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感染制御のためのバランス理論

カテゴリー:感染症とCOVID-19(2023年)

はじめに

岸田首相はCOVID-19感染症上の分類を5類に変更すること、これを5月8日から実施することを表明しました。そしてマスク着用についても個人の判断に委ねるとの考えを示しました。本来マスク着用は感染症法の分類にはない措置ですが、首相もメディアも、あたかも5類変更に伴う法的な措置のように伝えるのは不適切です。国民をダマすようなものでしょう。

5月19日からG7広島サミットが始まりますが、5月8日からの5類移行脱マスクもこれに向けた政治判断と思わざるを得ません。加藤厚労大臣は医療機関地方公共団体での準備を考慮して」と発言しましたが、それなら6月からとか7月からとかもっと遅くてもよいはずです。そもそも現在パンデミック中であり、過去最悪の犠牲者数を記録している最中での5類変更は、愚行以外の何ものでもないでしょう。

マスク着用は感染制御のための有効な手段の一つです。とはいえ、あくまでの防御手段の一つであって、これさえやっておけば大丈夫というものではもちろんありません。その理解に欠けるとマスクをしても感染世界一、マスクに意味はない」という間抜けな詭弁が出てくるのです。

感染防御においては、手段を多層的に用いることが重要というのが、微生物・ウイルス制御、感染症制御学の昔からの基本的考えです。この考え方はハードル理論バランス(シーソー)理論として知られており、リスク回避対策のためのスイスチーズモデル(Swiss cheese model) [1] と同様なものです。

いまの脱マスクの議論は、感染症対策というよりも脱マスクそのものが目的化している印象であり、ハードル理論、バランス理論、スイスチーズモデルの概念が欠落しているものと言えるでしょう。

1. ハードル理論、バランス理論とは

微生物やウイルスには食中毒や感染症の原因となるものがあります。これらを予防する(感染を防ぐ)ものとしてあるのがハードル理論です。図1にその概略を示します。この図は私が大学の微生物学の講義で使っていたスライドの絵です。

図1のモデル1は、食品中の微生物増殖を防ぐための抑制要因をハードルとして並べたものです。抑制要因として、加熱、低温、水分活性(Aw)、pHなどがあり、そのハードルの数が多いほど、微生物がそれらを越えて増殖する確率が低くなるということを表しています。

モデル2は、実際の加熱できない食品での例で、低温保蔵や水分活性では少しずつハードルを越えてしまうけれども保存料という要因で完全に防止できるということを示しています。

モデル3は、汚染レベルが低い食品の例で、その菌数が元々少なければ、抑制要因も少ない段階で防止できるということを表しています。

図1. 食品中の微生物制御のハードル理論.

一方、バランス理論は、微生物やウイルス制御の要素が多いほど感染リスクを回避できる確率が高くなる(安全性を高められる)というもので、基本的にハードル理論と同じ考え方です(図2)。これも私が講義で使っていた絵です。SARS-CoV-2で言えば、マスク着用、換気、手洗い、消毒、人混みの回避、行動制限、検査、濃厚接触者の隔離などの防御要素があります。

もちろん、一つ一つの防御効果には違いがありますが、重要なのはそれらが多層的に加わることでリスク回避の確率が格段に増すということです。一つの要素同士を比べて、こっちが優れているのでこっちはしなくてよいということにはならないのです。

図2. 微生物・ウイルス制御のバランス(シーソー)理論.

これらに似たものがスイスチーズモデルです [1]マンチェスター大学のジェームズ・リーズン(James Reason)が提唱したリスク管理のモデルで、スイスチーズをスライスした時の穴を失敗や欠陥に見立て、穴の大きさや位置が異なる複数のスライスを重ねることで、結果としてその穴を塞ぐことができるという考え方です。すなわち、リスク回避の要素を多層的に加えることで安全性を確保しようとする考え方です。 

スイスチーズモデルは、医療現場の安全はもとより、エンジニアリングやITセキュリティなど様々な分野における多層防御に応用されており、言わばリスク管理の基礎と言ってもよい考え方になっています。

2. リスク管理の基礎を欠いた政権や専門家

上述したハードル理論もバランス理論もスイスチーズモデルも、リスク回避要素を重ねることで全体のリスクを低減するということで共通しています。これが人の命、健康被害、大きな経済的損失、国の危機などに関わる場合には、たとえ不確定要素が多くても安全基準の幅を大きくとってリスク回避を確実なものにするというのが基本になります。

ところがこのリスク管理の基本的概念を欠いているのではないかと思われるのが、岸田政権や専門家です。いま日本はG7諸国の中では最悪の流行状況であり、この第8波で過去最多の死者数を記録しています(図3)。大部分が高齢者や基礎疾患を有する患者と言われていますが、実は60代以下の現役世代の死者数(全体の死亡の8%程度)も過去最多になっています。この事実は政府はもとよりメディアも全く伝えませんが、いま5類に移行するという、とても感染対策を緩和する状況にはないのです。

ちなみに日本以外のG7諸国の流行状況は、高齢化率と死亡率から考えれば、日本の第7波のピーク時と同程度と推測されます(図3)。日本のような明確な流行のピークはなく、ダラダラと流行が続いている状態です。日本のメディアはよく欧米は日常を取り戻していると伝えますが、COVID感染という点からはとてもそのようには言えません。人々はそれを知らないか、知っていても無視して生きているだけです。

図3. G7諸国における100万人あたりのCOVID-19死者数の推移(Our World in Dataより転載).

感染症法による分類は、言わばハードル理論、スイスチーズモデルにおける大きなリスク回避要素であり、セーフティーネットになっている部分です。5類へ移行することは、主要なリスク回避要素がなくなり、セーフティーネットが外されるということです。脱マスクとなれば、この要素も無くなります。したがって、5類に移行すれば、より感染しやすい、よりCOVIDに罹患しやすい、よりlong COVIDを増やす社会になるということであり、それに対して政府や行政は法的に責任がなくなるということになります。政府には全くリスクマネージメントの概念がないと言えましょう。

専門家の中には、たとえば、アルコール消毒は無意味だから、あるいは効果が少ないからやめるべきとか、マスク着用の方が効果が高いと言っている人がいます。これも、上記のリスク管理の概念に欠けた言い方です。たとえば、専門家が「屋内マスク不要」で「感染爆発の恐れ」があるとするのは正論ですが、アルコール消毒よりもマスクの方が効果が高いとして、一つの対策に重みをつけるのは不適切です [2]

SARS-CoV-2の主要な感染様式は空気感染(エアロゾル感染)であり、接触感染は稀です。だからと言ってアルコール消毒は不要とするのはリスク管理の面からは正しくありません。パンデミック下では医療ひっ迫を回避するためにあらゆる感染症を抑える必要があり、その面で接触感染で起こる感染症をアルコール消毒で予防することは重要なのです。さらに、固体表面をアルコール消毒することは汚染物のエアロゾル化を防ぐ(不活化する)という意義もあります。

おわりに

5類移行で感染制御のセーフティネットをなくす、さらに室内マスク不要とする制御要素を減らすことは、多層的手段が重要なリスク管理の面からは全く基本を欠いた愚行です。この感染制御のイロハを踏まえて報道しているメディアも皆無です。5類移行で政府や行政の責任も免除されるということも報道しません。

マスクをしても感染世界一」という日本の現状は、感染制御のバランス・ハードル理論を踏まえない政府の当然の帰結なのです。いま2類相当のCOVID-19ですが、行動制限やその他の措置は一切されていません。実質運用上は5類扱いです。全くの放置状態ですから、マスクという一つの要素があっても、感染力を増したウイルスは簡単にハードルを越えてやってくるわけです。

一方で、2類相当の分類で行動制限、濃厚接触者の隔離などの項目を残しておくこと、それに対する政府の措置責任を残しておくことは、いざというときの対処にとても重要なのです。5類にしてしまったら、たとえいま以上の流行が起こったり、強毒化したウイルスが流行ったときにも政府は何もしませんし(実質何もできない)、その責任も問えません。結局、5類移行で負荷がかかるのは医療従事者であり、損をするのは国民なのです。

引用文献

[1] Reason, J.: Human error: models and management
BMJ 320, 768 (2000). https://doi.org/10.1136/bmj.320.7237.768

[2] TBS東北放送:「屋内マスク不要」で“感染爆発の恐れ”東北大の専門家が警鐘「ウイルスの性質が変わらない限りは、制御不能に陥る可能性」2023.01.26. https://newsdig.tbs.co.jp/articles/tbc/296357?display=1

                    

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