Dr. Tairaのブログ

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ワクチン開発の時間を短縮するヒューマン・チャレンジ試験

いまネイチャー誌をはじめとする著名な有力科学雑誌はもとより、査読を経ないプレプリント論文掲載オンライン雑誌まで、新型肺炎COVID-19新型コロナウイルスSARS-CoV-2に関する論文や記事が続々と掲載されています。この感染症の免疫やワクチン開発に関する論文も多くみかけます。

先のブログ記事でも、ワクチン開発の展望や新しい免疫機構に関する話題を紹介しました(集団免疫とワクチンーCOVID-19抑制へ向けての潮流 BCG接種が新型コロナウイルス感染抑制に効く)。

そのような中で興味をそそられたのが、「科学者はワクチン試験のために健常者に対して新型コロナウイルスを感染させるべきか?」という、ドラスティックなタイトルの記事です [1]図1)。その内容は、COVID-19に対するワクチン開発は時間がかかるので、時間短縮のために、荒っぽい方法でワクチンの臨床試験を行うというものでした。すなわち、「ワクチン候補を健常者に投与し、いきなりSARS-CoV-2に曝して効果を確める」、「それで実用化までの時間を短縮できる」という、従来では考えられないワクチン試験の方法です。

この記事で紹介されているワクチン試験は、ラトガース(Rutgers) 大学(米国ニュージャージー州)集団生物倫理学研究センターの所長であるN. エル(Eyal)氏のグループが計画しているもので、プレプリント論文としてリリースされています [2]。彼らはこれを"Human Challenge Studies"(ヒューマン・チャレンジ試験)と呼んでいます。

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図1. ヒューマン・チャレンジ試験を紹介するネイチャー誌の記事のページ

多くの科学者は、ワクチンがCOVID-19流行終息の切り札であると考えています。しかし、そこには大きなハードルが待ち構えています。ワクチンの実用化の前には、その効果と安全性を確かめるための臨床試験が必要であり、それには三つのフェーズ(I〜III)をクリアしなければいけないからです。当然多額の開発コストとともに、長い時間を要します

まずフェーズIでは、少人数の健常者にワクチン候補を投与して、副作用となる毒性の有無や程度を調べます。とくに問題がなければフェーズIIに進み、少人数の実際の患者に投与して、薬効、安全性の確認や用量の設定などが行われます。

最後のフェーズIIIでは、多数(数千人規模)の患者にワクチン候補を投与して、さらに有効性や安全性について確認します。ここではワクチン候補と形状を同じにした偽薬(プラセボ [placebo]といいます)を用いて、薬を投与された患者の心理的効果が有効性に影響しないよう、注意深く試験します。そして、ワクチン投与区とプラセボ投与区における違いを判断するわけです。

このように、ワクチン開発においてはフェーズIIIという大規模な試験も含みますので、通常は実用化までに年単位の時間がかかります。COVID-19の場合はパンデミックの規模と健康被害の深刻さから、各国・各企業によって猛烈な勢いでワクチンの開発競争が行われているわけですが、それでも最短で1年半から2年かかるとされています。

今回提案されているヒューマン・チャレンジ試験の大きな魅力は、ワクチンの実用化と同意までの時間を大幅に短縮できることであり、これが「なぜこの試験をやるのか」という理由づけになっています。フェーズ1–IIIのプロセスをひとまとめにしたようなこの治験は、25-40歳の若い健常者100人にワクチンを投与した後、いきなりSARS-CoV-2に暴露させ、感染するかどうかということを観る方法になっています。

時間がないとは言え、このような荒っぽい方法はとても日本のような国ではできません。米国ならではというところです。ネイチャー誌は、ヒューマン・チャレンジ試験に対して以下のような課題をぶつけています。

健常者に病原体を感染させるような先例はあるのか? どのように試験を実施しコントロールするのか? ボランティアの被験者の安全性とリスクは? この試験は倫理的か? 被験者は報酬を得るのか? 独裁国家少数民族や囚人を対象として同様な試験が行われる心配はないか?

これらの問いに対して、試験の代表者であるN. エル氏は、インフォームド・コンセントに基づいて、この試験がいかに安全に倫理的に実施されるかを説明しています。そしてこの試験参画者を、チャレンジという言葉に表されるように、むしろ「幸せ者」ではないかとさえ強調しています。

試験の成功を期待したいところですが、「とにかくやってみる」、「効果や安全性は後から考えればいい」風の米国の(中国もそうですが)チャレンジ精神には恐れ入るばかりです。ただその分、ワクチンの安全性に関わる評価が後回しにされる懸念はあります。

いま開発中の主要ワクチンは、スパイクをコードした核酸(mRNA)ワクチンであり、前例のないものです(→集団免疫とワクチンーCOVID-19抑制へ向けての潮流)。翻訳や合成されたタンパクの消長や影響に未解明な部分があり、この部分の評価がおろそかにされないことを望みたいものです。

引用文献・記事

[1] Callaway, E.: Should scientists infect healthy people with the coronavirus to test vaccines? Natue 26 March 2020.
https://www.nature.com/articles/d41586-020-00927-3

[2] Eyal, N. et al.: Human Challenge Studies to accelerate coronavirus vaccine Licensure (March 2020).https://dash.harvard.edu/handle/1/42639016

引用したブログ記事

2020年3月21日 集団免疫とワクチンーCOVID-19抑制へ向けての潮流

                

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