Dr. Tairaのブログ

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食の安全と安心

はじめに
 
今日は3.11記憶の日です。日本は7年前、東日本を中心に未曾有の地震津波の大災害に見舞われました。これは自然災害だったわけですが、ある意味人災の部分もあります。具体的には東京電力福島第一原子力発電所の破壊・破損に伴う原子力災害です。
 
原発は1963年に商業化されましたが、当初から技術としての危険性と不完全性が指摘されていました。危険性とはもちろん放射能の生物学的毒性のことであり、不完全性とは放射性廃棄物の処分の方法や原発事故への対処法が確立していないことです。地震国である日本では、とくに原発技術の行使が危険であることが指摘されていました [1, 2] (図1)。不幸にして、2011年にこれが現実のものとなったわけです。
 
周辺の声を無視して、原発事故は起こらない、対策は万全と言い続け、推進して来た時の政権・与党と電力会社の責任は重大です。際立ったのは、2006年の国会では、日本共産党吉井英勝議員の質問で、福島原発事故と同じ事態が起きる可能性がすでに指摘されていたにもかかわらず、ときの安倍政権は「日本の原発でそういう事態は考えられない」として一切の対策を行なわなかったことです [3]
 
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図1. 原発の危険性を指摘した「技術と人間」(1976-1978年).
 
福島第一原発災害に付随して起こったのが、環境の放射能汚染に伴う農業・水産業被害です。農水産業は私たちの口に直接入る生鮮食品を提供しますので、人々は放射能汚染ということに当然ながら敏感に反応します。そのため自治体や生産者は農産物や水産物放射能測定を実施し、基準をクリアしたものだけを流通させるということに腐心してきました。現在スーパー等に並んでいる食品はすべて安全性が確認されたものです。
 
それでも宮城産、福島産の生鮮食品については、購入を躊躇するという人々がかなりいることが最近のTV放送でも紹介されていました。風評被害という言い方もしばしば聞かれます。そこで、安全と認められたものを人々が買うことをためらう心理を、安全・安心という観点から述べてみたいと思います。
 
1. 食環境と食の安全性
 
まず、食品が私たちの台所まへ届くまでの食と環境について考えてみましょう。食べるということは、エネルギーを得ると同時に体を作り、健康を維持するための必須の行為になります。したがって、安全な食品が安定的に供給され、かつ経済的に手に入るということが基本になります。つまり、食の安全性安定性経済性が基準になるわけです(図2)。
 
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図2. 食と環境における安全性、安定性、経済性.
 
農業、畜産業、水産業などで食料が収穫・捕獲され、あるいは生産され、加工・運搬・販売などを通じて私たちの食卓に上がるまでの一連の流れを食環境と言います(図3)。前述した食の安全性、安定性、経済性の3基準は、この食環境のいずれの段階においても保証されていなければなりません。
 
食環境における食の安全性は、安定性や経済性に大きく影響されます。たとえば、国内に米が不足したとすると(安定性の低下)、海外から輸入してまでも調達しなければなりません。その場合、米は高くなる傾向になります(経済性の悪化)。そして、とりあえず必要量の米を確保しなければならないということが優先されることで、安全性は後回しになります。すなわち、安定性が得られないと、経済性、安全性を無視してまでも生きるためには購入するという行動になるわけです。
 
安全性と経済性に関係する消費者の購入行動は、たとえば農薬を使用した食品にも見られます。農薬を使用した(農薬汚染の)果物と無農薬の果物が同じ値段で売られているとすれば、圧倒的に無農薬の果物を買う人が多いでしょう。一方、無農薬に比べて農薬使用のものが半額で売られている場合はどうなるでしょう。経済性を考慮して、農薬使用の果物を買う人がより多くなるかもしれません。
 
このように、食環境と消費者レベルにおける食の安全性の捉え方は、食の安定性、経済性と相互依存の関係にあります。
 
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図3. 食環境と食の安全.
 
2. 食の安全と安心
 
それでは食環境における食の安定性や経済性は別として、食の安全そのものに対する考え方と食品の購買行動との関係について説明しましょう。
 
まず、食の安全とは何でしょうか。それは、食品における具体的な危険性が排除され、そのことが科学的に(客観的に)裏づけされている状態を言います(図4)。そして、それを判断するのが専門家であり、それを具現化するのが行政です。さらに、消費者レベルで運用を可能にするのが、法的な環境(食品)基準です。具体的には「この食品中の◯◯は基準以下であるから安全である」という判断になります。
 
しかしながら、安全だからそれを買うということには必ずしもなりません。そこにはもう一つの要素である安心が必要になります。安心とは、心配・不安がない主観的な心の状態です。そして、安心は情報の提供側と受け手(消費者)側の信頼関係に強く依存します。つまり、安全と安心は異なり、科学的に安全だから安心して購入することには必ずしも結びつかないのです。
 
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図4. 食の安全と安心の違い.
 
3. 食の安心を生むシステム
 
ここで食の安心が発生するメカニズムについてもう少し説明します(図5)。ある食品が安全かどうかについては、専門家による検証を経て科学的裏づけがなされ、行政判断とともに客観的な安全宣言がなされます。ここで消費者は、その安全性について主観的判断をするわけですが、それに対する信頼性が高ければ高い程安心感が得られ、逆に信頼性が低ければ不安を生じます。つまり、科学的に安全であるということだけでは、安心を得るには不十分であり、そこに情報の信頼性が大きく介在するわけです。
 
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図5. 食の安心が発生するメカニズム.
 
消費者が専門家の情報を直接目にする機会はあまりありません。情報としてより身近なのは製品を提供する側(企業)の活動や社会サービス、それに行政サービスから来るものです(図6)。企業側は生産、管理、流通などの食環境を通じて法令や自社基準に照らし合わせて食の安全を保っています。具体的にはそれは産地表示、成分表示、消費期限、賞味期限などの情報として消費者に提供されています。一方、行政はさまざまな客観的判断や中立的判断を通じて消費者に情報を提供し、また企業を規制したり、行政指導したりしています。
 
私たちは自ら科学的判断することは困難なので、日常的にこれらの社会・行政サービスに依存して暮らしています。この依存のシステムの信頼性が高ければ安心を生むことができるのです。
 
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図6. 消費者レベルでの食の安心が得られるシステム.
 
つまり、安全に基づいて安心が生まれるためには、専門家に対する行政の信頼感、行政に対する企業や消費者の信頼感、企業に対する消費者の信頼感、そして逆に消費者(市民)に対する専門家、行政、企業の信頼感が必要であり、その相互依存の度合いが高くなればなるほど安心感は安定します。そして、安心感は社会や経済を回していくための、最も効き目のある安定剤であることを忘れてはいけません。
 
安心感を得るためには、ステークホルダー間のリスクコミュニケーションが果たす役割がきわめて大きいわけですが、この手続きが日本政府は従来から不得手です。日本の専門家はえてして科学的安全性のみで、行政は基準や法令のみで話を進めようとする嫌いがあり、消費者の安心の理解に繋がらない場合があります。そうなると消費者側の行政や専門家に対する不信感を生むことになります。相互不信の状況に陥ることは最も危険なことです。専門家や行政は消費者・市民がパニックになることを恐れて、情報を恣意的に操作した隠蔽したりする、いわゆるエリートパニックを生じる悪循環に陥ることになります。
 
その悪循環の解決に介在できるのは政治の力ということになり、そのチェック機能を果たすマスメディアの役割ということになりますが、ここでは深入りしません。
 
4. 風評被害とイメージ低下による被害
 
原発災害の後に、その産地や周辺由来の生鮮食品を購入するのを不安に思うのは、人として当然のことでしょう。さらに、科学的あるいは法的な基準を満たすという安全性を認識しながら、あるいは正しい情報を得ておきながら、なおかつ自己判断して野菜や魚の購入を控えることもありえることです。その結果、原発災害の周辺地域が経済的な打撃を受けたとしても、これはブランドイメージ低下による被害であって、風評被害とは言えないことになります。
 
イメージ低下は、メディアなどによる客観的な報道にも左右されますが、安心を得られない主観的判断に委ねられることも多いです。合理的に理解していても、安心が得られないとイメージ低下という感覚に繋がりやすく、またそれを取り除くことも容易ではありません。
 
では風評被害とは何か、それは事故や事件の後に根拠のない噂や憶測などで発生する経済的被害のことを言います。この点をふまえないで、マスメディアが風評被害という一括りの言葉で情報を流していることはよく見かけることです。 政府もしばしば風評被害という言葉を用いて、自らの処置が招いた実害を責任転嫁しようとします。
 
おわりに
 
以下に安全・安心に関して要約を示します。
●安全と安心は異なる
●科学的に安全だから、承認する、買うということにはならない
●安心は信頼性から生まれる
風評被害とイメージ低下による被害は異なる
 
最後に、再度強調しておきたいことは、食の安全が消費者レベルで理解されるためにはベースとして情報供給側に対する信頼性が不可欠ということです。しばしば問題になるのが、上述したように、専門家や行政が「科学的」という言葉や法的基準を盾に、上から目線で市民や消費者に一方的に食の安全や方策を迫ることです。これでは消費者の安全性への理解はもとより安心感は得られません。
 
人は基本的に主観で行動します。科学的情報はその行動に役立つ客観的材料の一つを与えるに過ぎません。そこに信頼性があるかどうかで大きく行動は左右されます。
 
危惧されるのは福島第一原発で溜まり続ける放射能汚染水の処理水です。いずれ敷地内で満杯となり、海洋放出などが具体的に議論される時期が来ることでしょう。ここで専門家や行政、それに東電がやり方を誤ると問題は大きくこじれることになり、ブランドイメージが低下し、周辺国や消費者の食の安全への理解は葬られるかもしれません。
 
引用文献・記事
 
[1] 原子力発電の危険性. 技術と人間・臨時増刊号, (株)技術と人間, 東京, 1976年11月.
[2] 原子力と安全性論争–伊方原発訴訟の判決批判. 技術と人間・臨時増刊号, (株)技術と人間, 東京, 1978年6月.
[3] 衆議院: 答弁本文情報 平成十八年十二月二十二日受領答弁第二五六号. 2006.12.22. http://www.shugiin.go.jp/Internet/itdb_shitsumon.nsf/html/shitsumon/b165256.htm