Dr. Tairaのブログ

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WHOが示した「事前確率が低ければ検査の偽陽性が多くなる」の意味

はじめに

世界保健機構WHOは、今年1月20日、臨床検査の専門家や技師向けに「SARS-CoV-2検出のためのPCRを用いる核酸検査技術」と題する文書をウェブ掲載しました(図1)。目的は、昨年5月に出されていたも情報の更新とさらなる明確化です(今回がバージョン2)。PCR検査の結果については、この指針や検査の指示書を踏まえて解釈すべきとしています。

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図1. WHOが掲載したSARS-CoV-2検出のためのPCRを用いる核酸検査技術に関する文書 [1].

1. WHOが示した検査上の留意点

この文書に第一に挙げられていることは、現行のSARS-CoV-2の標準検査であるプローブ・リアルタイムPCR(TaqMan PCRのサイクル閾値(cycle threshold, Ct)の考え方です。Ctは患者のウイルス排出量と反比例して大きくなるため、特に大きいCt値の陽性の場合は、必ずしも陽性者の臨床上の症状とは一致しない場合もあります。したがって、そのような場合は、検体を採取し直し、再検査すべきと述べています。

第二として、感染流行の程度が検査結果の予測に影響することに留意すべきとしています。すなわち、事前確率の低い場合の偽陽性の発生リスクを考慮せよということです。検査陽性者が本当にSARS-CoV-2に感染しているかどうかの確率は、検査の感度に関わらず、流行の程度が低くばればなるほど、低くなることを意味するということです。

大部分のPCR検査は単に臨床診断の手助け機能があるだけです。したがって、医療従事者は、検体採取のタイミング、検体のタイプ、臨床観察、患者の病歴、接触履歴、流行状態などを総合的に判断すべきであるとしています。つまりPCR検査のみに頼るなということです。

臨床検査の従事者が考慮すべきこととして以下の点が要約されています。

1) 指示書を注意深く読むこと
2) 指示書に不明瞭な部分があれば問い合わせること
3) 商品ごとに変更点がないか常にチェックしておくこと
4) 検査の依頼者(医療従事者)に対してCt値を添付すること

2. 偽陽性は古典的見解の踏襲

以上がWHOが出した指針の概要ですが、さてここで述べられている「事前確率の低い場合は偽陽性の発生リスクが高くなる」というは本当でしょうか。結論から言うと、それは現行のPCR検査については否です。

実は、WHOがこの見解を示した文章で引用されていたのは、Altmanら [2]BMJ論文です。これはリアルタイムPCRが普及する以前の1994年に出版された論文であり、非特異的反応(交差反応)が起こりやすい従来の臨床検査の知見に基づいて、偽陽性の発生リスクについて述べたものです。

現行のプローブRT-PCRがきわめて特異性が高いということは世界の共通認識であり、偽陽性はまず起こりません。非特異反応あるいはプローブのオフターゲットによってSARS-CoV-2の偽陽性を発生したという論文は、私が知る限り見当たりません。偽陽性の発生事例は、すべて検体の取り違えやクロスコンタミなどのヒューマンエラーによるものです(→PCR検査の管理と体制改善)。したがって、PCR検査の結果自体は"汚染物"さえも正しく陽性として判定しており、濃厚接触者や患者の臨床診断の段階で偽陽性であったという結果にすぎません。

「事前確率が低ければ偽陽性の確率が高くなる」という言説は、WHOでも情報をアップデートしていないくらいですから、日本の感染症専門家や医者が踏襲したとしても不思議ではありません。その代表例は、政府分科会の尾見茂会長です。また、BuzzFeedが掲載した記事では、テレビでおなじみの峰宗太郎氏も岩田健太郎氏も古典的な臨床検査の偽陽性確率論を持ち出していましたが、私は先のブログ記事でもそれを批評しました(→感染拡大防止と社会経済活動の両立の鍵は検査)。

3. 不可解な偽陽性の事例

PCR検査の偽陽性で不思議というか、釈然しないのは体操の内村選手の事例です。この件について、新聞は以下のように伝えています [3]

                                                  

体操の内村航平リンガーハット)が新型コロナウイルスPCR検査でいったん陽性と判定された後、再検査で陰性となった。無症状だった内村は練習に復帰、8日の国際大会(東京・国立代々木競技場)に参加できる。「偽陽性」ということで、保健所に対する届け出も撤回された。つまり判定が誤りだったということになる。

                                                  

この記事では、内村選手の検査結果は偽陽性であって判定が誤りだったと簡単に書いていますが、1回目の検査で陽性が出たのは事実であり、確実に検体中にSARS-CoV-2の遺伝子が含まれていたということになります。問題はこの陽性がヒューマンエラー(コンタミ)によるものか、Ct値が非常に高い、低いウイルス量を検出したものであったのか、何も公表されていないということです。

2回目の検査は陰性だったということですが、検体を再採取して調べたのかについてもはっきりしていません。コンタミで陽性だった場合でも、低いウイルス量を検出した場合でも、そのどちらの場合も2回目で陰性という結果はあり得ます。新聞記事ではPCR検査の精度の問題と片付けていますが [3]、検査管理と診断上の問題だと思います。そして、念のため内村選手は抗体検査を受けるべきだった思います(少なくとも抗体検査を受けたという報道はなし)。

おわりに

現行のブローブRT-PCRにおいては分析上の偽陽性はまず起こりません。偽陽性の発生を発表した論文もありません。その意味で、WHOの「流行の程度が低ければ偽陽性が高くなる」という見解は、従来の臨床検査には当てはめた古典的言説をそのまま踏襲したにすぎないことを認識すべきでしょう。

とはいえ、同時にWHOは検査は診断上の参考結果を示すだけであり、症状と一致しない場合は再検査をすべきと述べています。そして、医療従事者は検査のみならず、あらゆる角度から総合的に診断を下すべきと釘をさしています。この意味で、PCR検査の偽陰性確率を推定したKucirkaらの論文(→PCR検査の偽陰性率を推定したKucirka論文の見方)と同様な見解だと思います。

翻って検査抑制論を唱える日本の"感染症ムラ"や周辺の医者の方々は、ことさらPCR検査の偽陰性偽陽性に言及し、ベイズ推定まで繰り出してありもしない検査の誤りを誇張してきました。そして、こともあろうにKucirka論文の主旨を曲解して検査抑制論の拠り所としてきたことは、誠に日本の科学レベルのお粗末さを露呈させてしまったと言えます。その結果、ことさら日本の被害を大きくしたということは、国民にとって最大の不幸です。

引用文献

[1] WHO Information Notice for IVD Users 2020/05: Nucleic acid testing (NAT) technologies that use polymerase chain reaction (PCR) for detection of SARS-CoV-2. Jan. 20, 2021. https://www.who.int/news/item/20-01-2021-who-information-notice-for-ivd-users-2020-05

[2] Altman, D. G. and Bland, J. M. Diagnostic tests 2: predictive values. BMJ 309, 102 (1994). https://www.ncbi.nlm.nih.gov/pmc/articles/PMC2540558/pdf/bmj00448-0038a.pdf

[3] 北川和徳: 体操・内村の「偽陽性東京五輪の難題が明らかに. 日本経済新聞: 2020年11月4日. https://www.nikkei.com/article/DGXMZO65791480T01C20A1UU2000/?unlock=1

引用した拙著ブログ記事

2020年8月19日 PCR検査の偽陰性率を推定したKucirka論文の見方

2020年7月18日 感染拡大防止と社会経済活動の両立の鍵は検査

2020年5月2日 PCR検査の管理と体制改善

               

カテゴリー:感染症とCOVID-19