Dr. Tairaのブログ

生命と環境、微生物、科学と教育、生活科学、時事ネタなどに関する記事紹介

コロナ禍で浮き彫りになった日本の科学の脆弱性と今後(その2)

はじめに

前回のブログ(その1)で、コロナ禍において、新型コロナウイルスSARS-CoV-2COVID-19に関する研究論文が世界中で量産されているのに対して、日本発の論文数は少ないことを述べました。これが、あらためて日本の科学力の低下をあらわにすると同時に、専門家から発せされるPCR検査に関する誤謬やデマも如実となり、科学の醸成度も低いのではないかということも述べました。

ここでは引き続き、日本の科学力、研究力に影響を及ぼしてきた要因として、大学の法人化と運営費削減を取り上げ、今後の研究力浮上の方法論も考えていきたいと思います。

1. 大学の法人化と運営費削減の影響

すでに言い尽くされていることではありますが、日本の科学研究を弱体化させている一因と指摘されているのが、国立大学の法人化とそれに伴う国による運営費削減です。国立大学の独立行政法人化は2004年4月から開始されました。そしてそれに沿うかのように、研究論文数の伸び悩み(法人化の前からその徴候はありましたが)とその後の低下傾向が顕著になり(上記表1)、法人化の影響が指摘され始めました。

大学の基盤生活費とも言える運営費交付金の年次的削減は、大学運営と教育研究活動を直撃しました。その減額は13年間で運営費の12%に当たる1445億円にもなります。とくに人件費に充てられる基幹運営費交付金が707億円も減額された結果、国立大学の73%に当たる63大学で新規教員採用が抑制され、10年間で若手教員(<40歳)が1,426人、安定的な承継教員が4,443人減りました [1]

ちなみに同様な予算削減は、国の研究所(たとえば理化学研究所や、いまコロナ禍で中心的役割を担っている国立感染症研究所)などでも起こっています。

これだけの運営交付金の削減と教員の時系列での減員が起こっても、高度教育の場としての大学のミッションと質を保証するためには、教育カリキュラムや講義数、運営と活動の範囲などについて一定の水準以上を維持する必要があり、現有教職員でカバーせざるを得ません。その結果、起こったのが教職員1人当たりの労働負荷の増大と研究活動の低下です。とくに地方の国立大学や単科大学では、まともにこの運営費削減の影響を受けました。

法人化の目的は一言で表せば大学の効率化の促進です。そして、それを進めるための劇薬として運営費削減措置があったわけです。つまり「運営費交付金は自由に使ってください、その代わりに毎年1%削減しますよ、あとは経営の効率化を図るなり外部資金の導入をやるなり自助努力で対応してください」というものです。とくに高度先端技術での国際間競争の激化や少子化などの時流を考えれば、それに対応するための大学の効率化自体は避けることのできない命題です。その線上における国立大学の法人化は必要なものでしょう。

ところが国が進めた法人化措置は、教育研究機関である国立大学の役割、経営能力と運営体制を含めた特質、そして社会背景(とくに民間企業との関係)を十分に考慮しないままに、上からの運営費削減という荒技とともにいきなり始められ、それが継続されてしまったというところが問題でした。これは国の財政問題の処理方策の中で、効率化という名目で国立大学が狙われたと言う側面もあるかもしれません。

国立大学の特質とは、良い悪いは別にして、責任の所在がはっきりしない大学経営システム、基本的に指揮命令系統がない(お願いしかない)大学教員の組織体制、定時労働制の事務職員に対する裁量労働制の教員という二元時間労働制、適材適所を半ば無視した職員の定期的配置転換、そしてそのベースになる棒給表に基づく固定化した給与体系などです。

民間企業であれば、スクラップアンドビルド方式で不必要なセクションは潰しながら、効率化を進め、逐次新規事業へと展開するということができます。利潤追求と売り上げがそのベクトルと客観的物差しになり、そのために厳しい市場競争原理が働いています。会社と社員の業績は、多かれ少なかれ賞与に反映されます。

ところが大学では利益という客観的目標は存在せず、「教育と研究の質の保証」、「社会貢献」という漠然とした目標があるだけです。しかもこれは、基本的に税金に支えられた公共財として性格があるために、むやみやたらに方針・内容を変えられるものでもありません。あるプロジェクトを切って別のプロジェクトに進むという方法はとれず、予算措置がある限り基本的に積み上がっていきます。指揮命令系統がはっきりしない組織の中では、たとえトップダウンの決断と意向があったとしても、集団で動くことが必ずしも容易でない組織構造と給与体系になっています。

憲法89条の「税金を私的企業や団体に交付することを禁止する規定」は別として、実際上「税金に支えられた公共財」ということでは、日本の私立大学も同じです。600余りの日本の私立大学の大半(95%)には、私学助成金(私立大学等経常費補助金という名目の税金が投入されています。助成金交付トップ10になると、私が在職していた国立大学の運営交付金よりもむしろ多い交付額になります。すなわち、国立大学の法人化・効率化に関する問題は、私立大学にも当てはまることなのです。

効率化の目標はまさに経費削減と業務削減です。これらは本来自助努力によってなされた結果として出てくるものであり、運営費削減を前倒しして「さぁやれ!」というものではありません。それゆえ大学は、いきなり財政難に陥った中で実際どのようにして効率化を進めてよいのかもかわからず、とりあえず手に付けやすい人員削減、常勤から非常勤教職員採用への転換、若手教員の任期付ポジションへの転換、という対応をせざるをえませんでした。つまり、運営費削減分を主に人件費削減として措置したわけです。

国よる運営費交付金の削減分は、「特定運営費交付金」や「ブロジェクト補助金」として予算が計上され、大学に再配分されています。しかしこれらは、国に申請書を提出し、関門をくぐり抜けた一部のものだけに支給されるという、いわゆる競争的資金です。確かにこれがもらえるかどうかは、実際に実入りがあることと、プロジェクトが採択された大学という世間向けのプレゼンスの向上の面でメリットがあります。何よりも文科省による評価にも影響するので、大学も穫りにいくことに必死にならざるを得ません。

ところが、これらの競争的資金は、あらかじめ使途が決められた紐付きのお金であり、人件費に宛てがうことができないという基本的な欠陥があります。つまり、競争的資金が増えたとしても、若手研究者の安定した雇用にはつながらないのです。

私が実際に大学にいて法人化で一番感じたのが、運営で自由になるはずの大学が国による実質的管理強化で不自由になったこと文部科学省天下りの場になったこと、そして教授会の議決権喪失で大学のトップダウン経営の情報が不透明化し、教員自身がチェックしにくくなったことです。

本来は自由化と効率化を促すための法人化だったはずですが、文科省にお伺いを立てるための将来計画の立案・中期目標の設定と達成度の検証作業、競争的資金獲得のための申請作業に教職員が日々追われ、財政難で削られた人員分の穴埋めのための仕事量は増え、研究活動の時間は減るという本末転倒の状態になりました。ちなみに私の場合、法人化前とその後では研究活動のエフォートの割合は20%も減り、種々の会議や運営に費やす時間が圧倒的に多くなりました。

財政難に伴う人件費削減でさらに表面化したのは、任期付(テニュアではない)若手教員および職場の非正規職員の大幅増加と雇用継続の問題です。いわゆる雇い止めと言われる雇用問題です。私は労務委員会でこの問題に取り組んでいましたが、不幸にして経営幹部やテニュア教員は、労働基準法の決まりも含めて、この問題に当初から無頓着であったと感じます。

2. 選択と集中の誤りと大学の効率化

上述したように、国立大学の運営費を削減し、その分を一部の大学に競争的資金として再投入するという、財務省主導の「選択と集中」方式は、研究活動の促進という面からは明らかに誤りだったと言えます。なぜなら効率化以前に、運営費削減→財政難→若手研究者の安定的雇用の喪失→研究力低下という負のスパイラルを生んでおり、「集中」を施しても人的資源の問題は解消されない仕組みになっているからです。マンパワーが足りない、あるいは安定しないということであれば、研究活動が低下するのは当たり前でしょう。

選択と集中のもう一つの誤りは、資金集中による論文生産の比活性の低下です。たとえば同じコストをかけるなら、1億円を1人に集中させるより、100万円を100人に投入した方が、(論文の質は別にして)1人当たり・コスト当たりの論文数は確実に多くなります。現状のまま1人に上乗せで1億円を補助するというのならわかりますが、実際に財務省がやったことは、100人から100万円ずつ取り上げ、1人に1億円を還元するという方法です。

おそらく現状では、資金がより潤沢な旧帝大系大学ほど比活性が低く、コンパクトな大学院大学ほど比活性が高いということはあり得ると思います。資金を一部に集中させればさせるほど、国立大学全体では比活性が下がるということになるでしょう。

国立大学の法人化については評価する向きもありますが、山極寿一氏(京都大学学長)は「失敗だった」と断言しています [2]。 つまり、文部科学省と国立大学が一体となって取り組んできた教育研究の質の向上は無視され、国の財政悪化の対応措置として、国立大学の法人化と予算削減という手段で責任をとらされたと主張しています。多くの大学関係者も失敗と考える方が多いのではないでしょうか。

一方、国側の神田真人氏(財務省主計局次長)は、大学の現状を指して「既得権を当然視し、自分の城壁に閉じこもる方も少なくない」、「競争を止めれば、日本の大学は人類社会から落ちこぼれ、次の世代に廃虚しか引き継げなくなる」と主張しています [2]。これは下に示すように、一面では当たっています。

しかし、財務省の勘違いは、論文生産の比活性や人件費充填を考慮せずに、安易に「選択と集中を行なって競争させれば生産性が上がる」と考えたことです。そして、企業や財団からの大口寄附で成り立っている米国の私立大学や、基本的に高校からの教育無償化の上に立っている欧州の大学と比較して、社会背景が異なる日本の国立大学に効率化を求めたことであり、そのための事前予算削減ということやり始めたことです。

欧米に比べると日本は民間資金の寄附文化が醸成されておらず、実際、共同研究費(産学連携費)や奨学寄付金として大学が受け取る件数当たりの額は、有力大学を除いてきわめて小さいものです。寄附講座の数も多くはありません。新しい税額控除等の仕組みがない限り、企業からの寄附が大幅に増えることもないでしょう。

もともと日本には、大学の基礎研究の価値を評価できず、"人を育む"教育を人材育成としてしかみない企業風土があります。企業は大学の科学研究に貢献するというよりも、自社の開発研究の肩代わりという意味合いで投資を考える傾向があります。そして、その投資は、むしろ海外の大学へ向けられている場合が多いという傾向が見られます。

選択と集中は、競争がなく(あるとすれば省内出世競争しかない)、かつ競争というものを必ずしも理解していない霞が関官僚が考えたことですが、同じことを官庁で行なえば機能するはずがありません。省益と自己出世のために、政権にひたすら忖度し、文書の隠蔽・改ざんまで行なうという無駄なことを行なっている財務省ですが、むしろ効率化は彼ら自身が率先してやるべきでしょう。

とはいえ、財務省が指摘するように、日本の大学の論文生産性のコストパフォーマンスは高くないことは事実です。これは後述するように、裁量労働制における個々の教員の労働量の差によるものや、スケールメリットを生かせるはずの国内外の共同(協働)研究が少ないということが影響していると思います。さらには、どちらかと言えば探究心の幅が狭く(よく言えば一点集中の職人気質ですが)、科学シーンへの嗅覚センサーを最大限に働かしながら即応する力に欠けるということもあるでしょう。これはこのコロナ禍であらためてわかったことです。

3. 大学在職時に感じたこと

私が民間から大学へ移った時にまず思ったことは、裁量労働制の中で仕事の時間配分をどうすべきかということです。会社の時は朝から夕方までみっちりスケジュールがつまっていて忙しかったのですが、大学に来ると仕事をつくろうと思えばいくらでも増やすことができるということ、そしてその逆もあるという、時間の自由度を感じました。つまり、授業・セミナー、学生の研究指導、会議などの基本スケジュールをこなせば、後は自己判断で研究やその他の時間がとれるということです。

それだからこそ、大学ではいろいろな人がいていろいろな時間の使い方があるということを実際見て、よく言えば、これが研究の自由な発想と活力にもなっているということを感じました。一方、裁量労働の効率性と仕事量という面からは個人差が大きいということも感じました。分業体制になっていないことや、必ずしも適材適所とも思えない教職員の配置をも含めて、これらの面では大学が改善すべきことが多々あると思います。

繰り返しますが、裁量労働における時間管理の個人差が組織としての成果の評価に負の影響を及ぼしていることや、研究の生産性の低下に繋がっていることは否めません。ある職員いわく「町工場の社長さんの集まり」と教員組織を揶揄したことが耳に残っています。そして教員の裁量労働と事務職員の時間労働の二元労働制に無駄が多いということもあります。つまり、教員が事務職員、学生との共有時間内に、その日の仕事を終わらせると言う意識が低いように思います。民間では考えられない、後ろの時間を決めない会議の長さなど、改善すべき細かい点はいろいろとあります。

あと一つ言えることですが、これも神田氏が指摘していますが、定年退職した老教員が、管理・運営やアドバイザー・講師として関わる場合は別にして、研究のポジションに居座るということは原則として避けなければいけないことでしょう。さっさと優秀な若手研究者に席を譲るべきです。

4. 研究力低下は止められるか

それでは日本の研究力低下は、果たして止められるかという話になります。上記のように財務省主導の「選択と集中」は、マンパワーと比活性の低下という点で研究力低下の要因となりました。このまま国立大学の予算削減が続けば、ますます人的資源と研究活動にかける経費が圧迫され、研究力の向上はおろか、教育研究の質の継承すらむずかしくなるでしょう。財務省が自らの方策の無謬性に拘泥している限りは、それこそ大学や公的研究機関は廃墟化してしまうでしょう。

この状況を打開するためには、まずは国による国立大学への財政支援の健全化が必要です。その上で大学や公的研究機関は効率化を図り、研究環境を改善し、科学研究を促進するための施策を見直すことが急務です。しかし、このコロナ禍で一体どのようになるのか、予想がつきません。事態はより一層厳しいものになるかもしれません。

従来どおりの施策であれば、国内外の共同研究の促進、若手研究者への経済支援、民間資金導入の増強などがあります。文科省の調査によると、64%の大学が海外の大学や研究機関と研究協定を結んでおり、実際に2014年以降、Nature Indexに掲載された国際共同研究論文の割合は増加しています。

しかし、喫緊性があるCOVID-19、SARS-CoV-2の国際研究については芳しくありません。表2に示すように、日本の共同研究の相手は米国、中国などの論文多産国ですが、海外の論文多産国の共同研究相手として日本の名前はトップ10にないという有り様です(わずかに中国の場合10位に日本がランクイン)。日本よりむしろ流行の規模が小さい、オーストラリアや香港がランクインしているところを見ると、やはり国際研究力がものを言っていることがうかがわれます。

表2. 主な論文多産国のCOVID-19関連論文における国際共著相手国・地域(トップ10)の状況(文献 [3] から転載)

f:id:rplroseus:20200805161838j:plain

国際共同研究の遂行には、日本の法人化と法改正という事情がまた影響しています。日本の国立大学では旧来、講座制に基づいた研究体制をとってきました。すなわち、教授、准教授(助教授)、助教(助手)の垂直統合型の人事体制を一つの研究単位として、活動してきました。ところが、2007年の学校教育法改正によって、すべての教員は独立裁量権を得て、教育研究を行う権利と義務をもつことになりました。これによって、職位を問わず、すべての教員が欧米で言う責任研究者(principle investigator, PI)として自立することが可能となりました。

私が在職していた大学も、研究基盤が弱い助教を除いては、すべての教員がPIとして研究室を主催する方針になっていました。ところが法人化の影響による財政難で、PIのスタートアップの資金は満足に供給されず、研究室運営のための基盤経費の支給額も数人の学生の卒研指導にさえまったく足りない有り様でした。若手のPIは科研費等の外部資金がとれないとなると、研究室運営が不慣れなこともあって途端に研究に窮することになり、戦力としてのポスドクや大学院生も採りづらくなります。とても対等な立場で国内外の共同研究を計画することなどできなくなるのです。

私の場合はそれほど外部資金に困りはしませんでしたが、それでもコンスタントにポスドクを採用するなどの資金的余裕はなく、単発的な国際研究をやるにとどまり、テニュアとしての在職の20年間、学生指導の傍ら最後まで自分自身で実験を行っていました。これが法人化の影響で制度化された任期付若手研究者となれば、期限内での成果も要求されることから、仕事に相当なプレッシャーがかかることは確かです。

このように国際研究の充実はひとつの打開策ではありますが、研究資金や研究期間に余裕があることが前提になるように思えます。一方、分野にもよりますが、日本の研究者は、独立的運営能力や情宣力(営業力)の弱さに加え、国際的な共同研究が重要だの意識も低いとの指摘もあります。個人的には、とくに最近は若手研究者の内向き傾向が顕著になっている気がします。お金が十分にない、自分や職場の未来に想像が働かないということも影響しているかもしれません。

この面で旧来の日本式講座制は1人が資金難になったとしても他の教員が支えることができますし、またマンパワーの面でもスケールメリットがあり、教育研究・運営管理のノウハウを伝授しやすい、研究の活力(生産性)を維持しやすいと言う利点があります [4]。講座制を維持している大学は旧帝大系を中心にまだかなり残っていますが(厳しく言えば法律の不履行ですが)、このような利点を考えてのことかもしれません。

ただ分野の近い教員同士の集まりとしての講座制は、研究テーマの発展という面には不向きなところがあり、画期的成果は生まれにくいとされています。いわゆる子弟制度に見られるいい面と悪い面が共存します。これらの観点からの講座制の改善の提言もありますが [4]裁量労働に際しての研究者の個々の自立性と管理能力、そして大学内、学科内、講座内での緊張感は必要と思います。

安倍総理は「我が国がこれからも未来にわたって世界トップレベルの研究力を持ち続けるためには、若手研究者への支援強化が何よりも重要」と強調しています。しかし、現政権が言う研究力とは、どちらかと言えば、産業界の意向の上にたった現実的な(短期的な)成果を産み出す研究開発力であって、基礎研究や公共財としての大学の価値に理解があるのかどうかは疑問です。

現政権や官邸においては、とくに経済産業省の力が大きくなっており、従来以上に産業に資する現実的成果が求められる傾向になっていると言えます。COVID-19流行においてさえ、科学的根拠に基づく有効な感染症抑制対策を打ち出すことなく、経済活動優先に舵を切っている国の姿勢の根底には、基礎研究への無頓着や理解力のなさがあると考えられます。そして、以前からこの国に流れている、官僚の学への信頼性(リスペクト)のなさ、民間と学の間にある研究に対する意識のズレが、研究力低下に歯止めがかからない大きな要因になっていると言えます。

マスメディアが伝えるところによると、企業の研究開発への投資は昨年まで上向きで、2019年度の研究開発費総額は18年度に比べ5%ほど上がったとされています。とくにICT分野を中心とする技術革新に対応するために、研究開発投資を継続する姿勢がうかがえます。しかし、このコロナ禍においては、税収は減り、産業界も学界も予算減を強いられることは避けられないです。この先の国立大学は、運営交付金の交付のみならず産学連携費や寄附金などの外部資金調達においても、一層苦境に立たされる可能性があります。

5. コロナ後の大学と科学

世界保健機構WHOのテドロス事務局長は、7月31日、新型コロナウイルス感染症について「100年に1度の公衆衛生上の危機だ。影響は数十年に及ぶだろう」と警告しました(図3)。そのうえで、「最悪の状態を脱したと思われた多くの国で、新たな感染拡大が起きている」として、改めて警戒を呼びかけました。

f:id:rplroseus:20200802133756j:plain

図3. WHOテドロス事務局長による「新型コロナの影響は今後数十年」とする警告 (TBSテレビ「報道特集」より).

このテドロス事務局の言述は、これからの大学と科学のあり方の大きな変革を余儀なくされることを意味するものです [5]。大学と科学界は、これまでの研究活動の環境ではなくなることを覚悟すべきでしょう。

すでに世界的に大学はキャンパス出入りの制限と、遠隔オンライン授業に踏み切っています。これは、とくに留学生の国際間の移動を困難にしていますが、逆に入学に物理的なハードルがあった大学の平準化に働いているかもしれません。授業のオンライン化は、大学の物理的規模の大小による格差を縮めることになるので、もともと規模の小さい大学にとっては有利に働くかもしれません。しかし、実際実験室で手足を動かさなければならない研究活動にとっては大きな障害になるでしょう。そして、世界的に大学は財政困難な状態に陥っています。

今回のパンデミックは、すでに研究対象に影響を与えています。上述したように、プレプリントサーバーのデータは、SARS-CoV-2に関連する特定分野が普段より活発になっていることを示しています。たとえば、バイオアーカイブのウイルスを含む微生物学カテゴリーの論文の割合は、今年に入って明らかに高くなっています。また、物理科学・数学系のアーカイブarXiv)におけるモデリングや疫学を含む「集団と進化」分野では、2020年3〜5月の投稿数は、前年の同じ時期のそれの5倍近くに増えているようです [5]

そして、ネイチャー系やサイエンス系の雑誌でも、高インパクトの医学雑誌でも、今は新型コロナ関連ということで、迅速性を最優先していることから論文が通りやすくなっているという傾向があります。そしてそれらのほとんどがオープンアクセスです。

SARS-CoV-2に関連の論文が増えるのは当然のこととして、注目すべきは感染症が専門ではないの研究者(たとえば物理学者)が、多く論文を投稿していることです。世界共通の課題に対して研究者が、本来の専門分野を離れて、もちろん自らの専門分野の知識や技術を生かしながら、素早く対応している状況がうかがわれます。

これらの研究分野のシフトが一時的な現象とみるか、これからの方向性を占うものとして重要視するか、時期尚早ではあると思いますが、注視しなければならないことは確かです。医学や生物学の分野は当然のこととして、物理、化学、経済学などその他の分野でも従来の細目分野よりもコロナ関連の課題が予算獲得の面でも、大学院生獲得において有利になる可能性はあります。

今後この感染症流行がどのようになるか、そして政府の研究開発の予算配分の傾向がどのようになるかが、科学研究に大きな影響を与えることになります。流行がなかなか収束しない場合は、COVID-19やSARS-CoV-2の研究や流行下の経済研究に政府の資金がより集中することになるでしょう。その結果、従来の基礎研究は煽りを食うかもしれません。とくにフィールド調査をメインに行なうような基礎研究は、パンデミック下の物理的移動制限もあってきわめてやりにくくなる可能性もあります。

探究心の幅が広い人は、素早く分野変更をして新型コロナ関連の研究を行なうかもしれません。欧米では実際にそのような傾向が顕著です。一方日本はどうでしょうか。分野変更までして挑戦する人はやはり少ないように思います。メディアで話題になったこととして、数理物理が専門の小田垣孝氏(九州大学名誉教授)が、接触削減と検査の拡大の割合によって防疫効果がどう変わるかシミュレーションした結果を発表しましたが、このような例はきわめて稀です。

おわりに

コロナ禍という非常事態においては、その国の政治、経済、科学などの真の力を浮き彫りにさせます。ウイルス病原体というゴマカシの効かない相手に対しては、それぞれの分野での底力が試されるということでしょう。その意味で、もともと論文数の減少にあった日本では、さらにコロナ関連の論文数の少なさ、世界にはほとんど見られない医クラ・感染症コミュニティを中心とする謬言を含めた混乱、科学的根拠に基づく感染症対策の迷走ぶり、メディアの科学情リテラシーの欠落、SNS上での科学者による発信の少なさというものが露呈し、国全体における科学力の低下ぶりが、あらためて明らかになった感じがします。

日本の研究力の持ち直しには、やはり次世代を担う若手研究者の力が必要です。国は大学への財政支援の健全化を進めるとともに、若手研究者への支援増強を今以上に展開していく必要があります。若手研究者は、探究心の幅を広げ、スケールメリットを生かせる国内外での協働研究を進めることが必須であると考えられます。

この先、新型コロナ流行は当分続くでしょう。その過程において、そしてコロナ後においては、世の中や科学界が激変することになるでしょう。もはや元には戻れないこと、あるいはライフスタイルの修正が余儀なくされることを覚悟し、新しい道を模索しなくてはいけません。そのときに日本の科学界は迅速に対応し、今ある以上の科学力を示すことができるようになるでしょうか。

引用文献・記事

[1] しんぶん赤旗 国立大学運営交付金の削減 日本の研究力 危機 畑野議員 抜本増への転換迫る. 2018.12.04. https://www.jcp.or.jp/akahata/aik18/2018-12-04/2018120404_01_1.html

[2] 嘉幡久敬 小宮山亮磨: 日本の研究力低下、悪いのは…国立大と主計局、主張対立. 朝日新聞DIGITAL. 2018.10.16. https://digital.asahi.com/articles/ASLBD56JXLBDPLBJ006.html

[3] 科学技術・学術政策研究所:COVID-19 / SARS-CoV-2 に関する研究の概況 [DISCUSSION PAPER No. 181]の公表について. 2020.05.15. https://www.nistep.go.jp/archives/44297(小柴 等,伊神 正貫,伊藤 裕子,林 和弘,重茂 浩美 「COVID-19 / SARS-CoV-2 に関する 研究の概況 ─ 2020 年4 月時点の論文出版等の国際的なデータからの考察」,NISTEP DISCUSSION PAPER,No.181,文部科学省科学技術・学術政策研究所. DOI: http://doi.org/10.15108/dp181

[4] 渡辺芳人: 講座制の果たしてきた役割と今後の姿 日本の学術研究が再び輝くための私案. 化学と工業 72, 820 (2019). http://www.chemistry.or.jp/opinion/ronsetsu1910.pdf

[5] Witze, A.: Universities will never be the same after the coronavirus crisis. Nature 01 June 2020. https://www.nature.com/articles/d41586-020-01518-y

引用したブログ記事

2021年8月1日 コロナ禍で浮き彫りになった日本の科学の脆弱性と今後(その1)

                 

カテゴリー:科学技術と教育

カテゴリー:感染症とCOVID-19