SARS-CoV-2の遺伝子がヒトDNAと組み込まれることを裏付ける新たな証拠
米国ホワイトヘッド生物医学研究所/マサチューセッツ工科大学の研究チームによって、2020年12月にバイオアーカイブ(bioRxiv)に投稿されたプレプリント論文 [1] はSNS上で大きな波紋を呼びました。なぜなら、新型コロナウイルスSARS-CoV-2に感染すると、そのウイルスRNAが感染者のゲノムDNA内に組み込まれる可能性を示す内容だったからです。そして、mRNAワクチン接種の反対派を勢いづかせる、一見格好の材料を与えたからです。
この論文は、2021年5月、米国科学アカデミー紀要(PNAS)に査読を経て掲載されました [2]。前のブログ記事でもこの論文を紹介しています(→新型コロナウイルスのRNAがヒトのDNAに組み込まれる)。
サイエンス誌のスタッフ・ライターであるJohm Cohen氏は、この論文が与えたインパクトと騒動について記事にしています [3](図1)。ここでは、それを全文紹介したいと思います。
図1. Jon Cohen氏によるPNAS論文を紹介するサイエンス記事 [1].
以下、筆者による当該サイエンス記事の全文翻訳です。わかくりやすくするために適宜補足説明の言葉が入れてあります。
ある著名な科学者チームは、「私たちの染色体にパンデミックコロナウイルスの遺伝子の一部が組み込まれ、感染が終わった後もずっと残っている」という科学論争の仮説を再度確認するに至った。もしこの仮説が正しければ、〜懐疑的な人たちは実験室のアーチファクトである可能性が高いと主張しているが〜、COVID-19から回復しても、数ヵ月後に再度SARS-CoV-2の陽性反応が出るという珍しい現象も説明できる。
この研究を主導したホワイトヘッド生物医学研究所/マサチューセッツ工科大学の幹細胞生物学者 Rudolf Jaenisch 教授と遺伝子制御専門家 Richard Young 教授の研究チームは、2020年12月、バイオアーカイブのプレプリントでこのアイデアを初めて発表したが、すぐにツイッター上で話題になった。著者らは、ウイルスが組み込まれたとしても、COVID-19から回復した人が感染力を維持していることにはならないと強調した。しかし、彼らを批判する人たちは、伝令RNA(mRNA)をベースにしたCOVID-19ワクチンが何らかの形でヒトのDNAを変化させるのではないかという、根拠のない不安を煽っていると非難した。
(一方、Janesich と Young は、彼らの自身の結果がオリジナルで新規性があり、mRNAワクチンがその配列を人間のDNAに組み込むことを示唆するものではないと強調している)。
他の研究者からはいくつかの科学的な批判が寄せられた。批判対象となったうちのいくつかについては、本日、PNASのオンライン版に掲載された論文で取り上げられている。Jaenisch は、「コロナウイルスの配列がゲノムに組み込まれることを示す明確な証拠が得られた」と語る。
COVID-19の原因ウイルスであるSARS-CoV-2は、RNAで構成された遺伝子を持っているが、Jaenisch、Young、および共著者らは、まれにヒトの細胞内の酵素がウイルスのRNA配列をDNAにコピーして、ヒトの染色体に滑り込ませることがあると主張している。この酵素(逆転写酵素)は、LINE-1エレメント(レトロトランスポゾンの一種)にコードされている。LINE-1は、ヒトゲノムの17%を占めるDNA配列であり、レトロウイルスによる古代の感染症の名残である。研究チームは、バイオアーカイブのプレプリント上において、LINE-1を増強させたヒトの細胞にSARS-CoV-2を感染させると、そのRNA配列がDNA化され、細胞の染色体に入り込むという証拠を発表した。
LINE-1やその他のレトロトランスポゾンを専門とする研究者の多くは、この主張を裏付けるにはデータが薄すぎると考えた。ヒトゲノム中のレトロウイルス群を研究しているコーネル大学の Cedric Feschotte 教授は、「もしこのデータであれば、私はその時点でどこへも論文投稿しなかったでしょう」と言う。彼をはじめとする研究者たちは、Jaenisch と Young のような優秀な研究者による、より質の高い研究を期待していたと述べた。その後、バイオアーカイブに掲載された2つの研究で、Jaenischらの結果が批判された。すなわち、ヒトとウイルスDNAの痕跡のキメラと思われるものが、Jaenischらが使用した染色体実験技術によって日常的に作られているという証拠が提示された。ある報告書では、ヒト-ウイルスの配列は「本物の逆転写、組み込み、発現の結果というよりも、使用した方法に由来する産物である可能性が高い」と結論づけている。
Jaenisch と Young らは、今回の論文の中で、彼らが使用した技術が偶然にヒト-ウイルスのキメラを作り出すことを認めている。「それは正しい指摘だと思う」とJaenischは言う。さらに、彼らがある雑誌に論文を最初に投稿した段階では、より強力なデータの必要性は感じていたので、査読の過程でそれを追加したいと考えていたと言う。しかし、その雑誌は、他の多くの学術誌と同様、COVID-19の結果をすぐにプレプリントサーバーに掲載することを著者に要求した。「判断を誤ってしまった」と Jaenisch は言う。
Feschotte は、Jaenisch氏とYoung氏の仮説を "もっともらしい "と評価している。SARS-CoV-2も、遺伝子を組み込まずに数カ月間、人の体内に留まることがあるという。
実際的な問題は、この細胞培養のデータが、人間の健康や診断に関連するかどうかである。Feschotte は、「COVID-19患者にウイルスRNAの組み込みの証拠がない場合、これらのデータから私が考えることは、LINE-1が過剰に発現している感染細胞株でSARS-CoV-2のRNAレトロポジション現象を検出できるということだけだ」と語る。これらの観察結果の臨床的または生物学的な意義があるかどうかは、現時点では純粋に推測の域を出ないという認識だ。
Jaenisch と Young の研究チームは、COVID-19患者の生体組織および検死組織において、SARS-CoV-2の組み込みを示唆する結果を報告している。具体的には、組み込まれたウイルスDNAによってのみ生成される一種のRNAが、細胞の転写過程で検出されたという。しかし、Young は、「まだその直接的な証拠はない 」と認めている。
フレッド・ハッチンソン癌研究センターのヒトゲノム中の古代ウイルスの専門家である Harmit Malik は、ウイルスを除去したはずの人がPCR検査で陽性になることがあるのはなぜかという疑問は「真っ当な疑問」であると言う。しかし、ウイルスが組み込まれているという説明には納得していない。「通常の状況下では、人間の細胞には逆転写装置がほとんど存在しない」とMalik は言う。
2020年12月から、この論争は明らかに市民権を得てきた。Jaenisch と Young 両氏は、自分たちのキャリアの中で最も厳しい批判に曝された研究であったと語っている。その理由のひとつは、今回認可されたばかりのmRNAワクチンについてデマを流すワクチン懐疑論者の手先になるのではないかと心配する研究者がいたからである。「削除すべきプレプリントがあるとすれば、それはこのプレプリントだ。関連する証拠がまったくないのに、プレプリントとして掲載すること自体が無責任だ」ーバージニア大学の微生物学者Marie-Louise Hammarskjöld教授は、当時バイオアーカイブにこのようにコメントを投稿していた。
それで最初に投稿した論文は?「彼らはそれを却下した」 とJaenisch は言う。
筆者あとがき
上記のように、JaenischとYoungの研究チームがバイオアーカイブに投稿した原稿は、批判の嵐に巻き込まれました。このプレプリントに対するツイートは7000件を超え、直接的にも50以上のコメントが寄せられました。それらの多くは、掲載すべきでない、反ワクチン派に手を貸すべきでない、という批判的なものです。そして、最初に投稿した査読付き雑誌では掲載が却下されたようです。
幸いにして、JaenischとYoungの研究チームの研究成果はPNAS誌に掲載されました。研究成果そのものは特筆すべき内容であり、上記のように「LINE-1を過剰に発現している感染細胞株におけるSARS-CoV-2のRNAレトロポジション現象」を証明したという真っ当なものです。
私は画期的な研究成果ほど、そして投稿のタイミングによっては、猛烈な批判の対象になるということを、あらためて認識させられました。今回のPNAS論文は生命科学の常識を覆すというほどではありませんが、mRNAワクチンに対して疑念を抱くには十分な内容であり、かつプレプリントサーバーへの投稿がmRNAワクチンの普及の時期と重なり、不運でした。
mRNAワクチンがこれまで実用化されなかった理由はいろいろあります。それらを乗り越えてというか、パンデミックを早急に終わらせなければいけないという緊急性と使命感から、今回COVID-19用mRNAワクチンが短期間で開発され、人類史上初めて大量に接種されているわけです。
それだからこそ、予期しないことが起こる可能性も残されています。mRNAがヒトゲノム中に組み込まれるのではないかという仮説もその一つです。多くの生命科学者もワクチン専門家も「原理から言ってそれはあり得ない」と否定しています。しかし、ただ否定するだけでは問題は解決しないでしょう。何せ今回のワクチンにはmRNAの翻訳プロセスという、従来のワクチンにない余計なステップが加わっているのですから。そして(たとえばモデルナ製mRNAワクチンの場合)、体内に入ったmRNAは最大5日間残存することが示されています [4]。
LINE-1による細胞内mRNAのレトロポジションは知られている事実であり、今回も特定の条件とは言え、コロナウイルスRNAのDNAへの組み込みが証明されました。であるなら、「mRNAワクチンがDNAに組み込まれることはない」と否定しているだけではなく、念のためにそれを早急に調べて否定すればよいのです(技術的には簡単ではないですが)。
引用文献・記事
[1] Zhang, L. et al.: SARS-CoV-2 RNA reverse-transcribed and integrated into the human genome. bioRiv Posted December 13, 2020. https://www.biorxiv.org/content/10.1101/2020.12.12.422516v1
[2] Zhang, L. et al.: Reverse-transcribed SARS-CoV-2 RNA can integrate into the genome of cultured human cells and can be expressed in patient-derived tissues. Proc. Natl. Acad. Sci. USA. 118, e2105968118 (2021). https://www.pnas.org/content/118/21/e2105968118
[3] Cohen, J.: Further evidence supports controversial claim that SARS-CoV-2 genes can integrate with human DNA. Science May 6, 2021. https://www.sciencemag.org/news/2021/05/further-evidence-offered-claim-genes-pandemic-coronavirus-can-integrate-human-dna
[4] 独立行政法人医薬品医療機器総合機構: コロナウイルス修飾ウリジンRNAワクチン(SARS-CoV-2). https://www.pmda.go.jp/PmdaSearch/iyakuDetail/GeneralList/631341E
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