今朝のNHK「あさイチ」で女性同士の友情を取り上げていました。生物学的に考えれば、多くの霊長類が母権社会を形成してきた事実があり、女性と女性の結びつきは特別なものがあると想像できます。昆虫をみても、ミツバチの社会は女王蜂を中心に働き蜂もすべてメスで構成されており、オスは生殖のためだけの意味しかありません。メスの単為生殖で発生する生物もたくさんいます。
こうやって考えると、極論すれば生物の世界ではオスは不要であり、付け足しぐらいの存在しかないように思われます。
それはともかくとして、あさイチの番組の中でも紹介されていた日本の社会での女性像ですが、学校を卒業後就職し、結婚で家庭をもち出産・育児するという、一般社会の固定観念があるようです(図1上)。この固定概念とそれに当てはまらない女性(例えば独身女性や子供がいない既婚女性)との間で生じるギャップが、女性間の友情のむずかしさの原因の一つになっているという話が出ていました。
対比して紹介されていたドイツの女性の場合、若いうちに出産し(未婚、既婚にかかわらず)、それから学校を卒業し、就職するという一つのスタイルがあり、日本よりはるかに多様な生き方があるようです(図1下)。
番組を観て思ったことですが、日本における一般社会の女性像の固定観念がある上に、日本の女性もまたこの固定観念にとらわれて過ぎている印象を受けました。そして、この固定観念のために多様な生き方をもつ女性との意思疎通がうまくいかない場合があるのではと思いました。
そこで、思い出されたのが、山崎喜久枝氏著の「枕崎ー女たちの生活史」という本(図2)の中で記述されている、日本の社会通念における女性像です。
図2. 山崎喜久枝氏著「枕崎ー女たちの生活史」
この本の中に、街の中に見られるさまざまな男女の銅像の違いについて記述があります。すなわち、男性の銅像にはほとんどの場合、ちゃんと氏名や説明書きが刻まれているのに対し、女性の銅像の場合はそれがないというのです。そして、多くの場合、女性は子供といっしょの像になっているという指摘がなされています。
つまり、銅像におけるこの違いが日本における(とくに男性社会から見た)女性像の固定観念の現れであるかもしれません。つまり、図1に示したような結婚、家庭における出産、育児とセットになった一般像としか女性が捉えられておらず、没個性、没社会人の扱いになってしまっているということです。しかも、多くの女性自身のマインドが、それにすっかり同化してしまっている現状があります。
写真1、2は私のウチの近所で見られる銅像です。
写真1
写真2
普段私たちはスルーしてしまいますが、よく考えてみれば、街の中の男性像と女性像の建て方の違いは奇妙です。意識して見れば見るほど、気持ち悪くなる印象さえあります。とはいえ、街の風景の中にまで浸透しているこのような社会の女性への固定観念は、なかなか取り除くことはむずかしいでしょうね。
カテゴリー:社会・時事問題